未来と向き合い平和について考える~大学生協の戦後70年特別企画~

講話者 木戸季市さん

◎私は三度被爆者になった

 私は三度被爆になったと思っています。
 1回目は1945年8月9日です。被爆し、やけどもしましたし、虚弱になり、被爆者になりましたが、何が起こったかわかりませんでした。幼かった私は、原爆をドラム缶爆弾と言っていました。ピカッと熱線を浴び、ドーンと爆風で飛ばされ気を失い、母の声で目覚め、初めて見たものが散乱したドラム缶でした。それで、原爆をドラム缶が爆発したものと思っていたのです。「この子はそんな風に」と思ったのか、父や母は、涙は流しても、違うとは決して言いませんでした。
 原爆について、アメリカは一切報道してはいけないと禁止しました。ジュノー博士がマッカーサーに医療品を要請しましたが拒否されまし。それは原爆の非人間性を隠すためでした。公式には被害者の写真を撮ることも許されず、被爆者は大変な被害を負っていましたが、見捨てられていたのです。
 2回目は禁止が解かれ『アサヒグラフ』が原爆報道の特集を出した1952年です。私はそのとき、初めて自分が被爆者、と知りました。それと同時に不安も抱き始めました。私はやがて白血病で死ぬ、子どもをつくってはいけないなどです。奇形児が生まれると言われていたからです。長崎で被爆し他県で教師をしていた女教師から「広島・長崎以外の地で被爆者を名乗ってはいけない」と言われました。説得力がありました。
 3回目は1991年、岐阜県に被爆者の会を作ったときから今日です。被爆者運動に参加して、被爆者として生きることを教えられています。被爆者として生きる、それが被爆者になるということ、と思っています。私は投下された当時5歳だったのですべてを記憶しているわけではなくても、自分の言葉で話ができる最後の世代として、いつか何かやらなければならない時が来るとは思っていました。その時が来たのです。
 一緒に活動している被爆者は絶対に報復を考えず、再び被爆者を作らないことを目指しています。これはなぜなのでしょう。あのときの情景は人間が滅びたときの姿でした。誰であろうとあの状態は作ってはいけません。それを目の前にしてきた人として報復は絶対にしないというのです。私は、これは最高の人間の思想だと思っています。

講話者 木戸季市さん

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