未来と向き合い平和について考える~大学生協の戦後70年特別企画~

講話者 和田征子さん

日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)事務局次長。PeaceNow!Nagasaki2015にて講和を行っていただきました。

講話者 和田征子さん

被団協の和田征子と申します。このような機会を与えていただいたことを深く感謝申上げます。広島・長崎の原爆投下から70年が経ち、被爆者も高齢となりました。今年、被爆者の平均年齢が始めて80歳を越えたと報道されました。核兵器、核戦争の脅威の声が高まる一方、被爆による障害は、年とともに過去の記憶として薄れています。

◎被爆者の体験を話し始めた理由

私は1943年長崎で生まれましたので、一番若い被爆者の一人です。1歳10ヶ月でした。当時のことは幼すぎて覚えておりません。年上の被爆者が経験した筆舌に尽くしがたいことを話すこともできません。今までにも証言の機会がありましたが、直接体験していないものなので躊躇するところがありました。しかし、わたしは母、祖父と共にあの場にいたのです。そして当時のことを知れば知るほど、記録や書物を読めば読むほど、自分の中で語らなければならないという想いが強くなってきました。今日は、母から聞いた原爆の体験をお話させていただこうと思います。母の言葉です。

◎1945年8月9日のこと

8月9日、あの日も暑い日で、私は代用食の昼食の用意をしていました。空襲警報は解除になっていました。1943年(S18)の10月に生まれた長女の征子は、私の「お外は暑いからお内で遊びなさいよ」という言葉を聞いて、玄関の土間の所で一人遊んでいました。静かなお昼前でした。

ドーン、という音。気が付いた時には、爆心地から2.9km離れた今博多町の家の中には30センチ以上の泥が積もっていました。窓ガラス、障子や格子戸や、土壁、すべてが粉々になってしまったのです。何が起こったかわからない。外はオレンジ色の煙が漂い、向かい側の家も見えません。「うちの家に爆弾が落ちた!」と叫んでいる人たち。見渡す限り家々の瓦は、すべて魚のうろこをこそぎ取る時のように、片隅に寄ってしまっている。市内を取り囲んでいた周りの山の緑はなくなり、茶色の山となっています。

暫くすると、その茶色の山道にぎょっとするような光景が見えました。爆心地の浦上から火を逃れ、水を求めて山越えして、金比羅山から立山へと下ってくる人達の列。遠目には、蟻の行列のように見えました。着けている衣類も殆どなく、髪の毛は血で固まり、角の様になっている人達の列でした。その山道でどれだけ多くの人達が力尽きたことでしょう。その山道には、戦後も長い間、ただ石を積んだだけのお墓のようなものがみられました。

◎投下後の長崎

家の隣は疎開地でした。疎開地とは、火事の延焼を止めるために、前もって家を壊して空き地にした土地のことです。家の裏には井戸があり、ひどい火傷や怪我をした人達が、水を求めて次から次へとやって来るのです。私は征子を背負い、どれだけの人の傷を洗ったでしょう。日ごろからためていた、熱湯で消毒して用意していた小さな古切れも役にたちました。その人達が、その後どうなされたか、知る由もありません。

疎開地では毎日火葬が続きました。その臭いで、何も口にすることができません。黒い大八車の箱型のゴミ車に満載された遺体が、どんどん運ばれて来ます。道端の遺体を集める人達も、手足を持って、ポーンとゴミ車に投げ入れる。焼けただれた手足が人形の様に荷台からとび出している。「今日は多かった、少なかった」等と、話しながら、誰もが毎日見るそのような光景に、何も感じなくなったのです。人間の尊厳とは何でしょう。人間がそのように扱われていいのでしょうか。

◎終戦の日の長崎―

終戦の15日、私は町内から一人、西山にある現在の長崎大学経済学部の体育館に行き、怪我、火傷のため収容されている人達の治療を手伝いました。体育館一杯に、寝かされているその人達の姿、光景は、言葉で言い表す事はできません。医師の後から消毒液を持って、一人ひとりと回ります。余りにひどい傷に私は「誰かこの消毒液を取ってください!」と叫んでその場に気絶してしましました。医薬品は当時貴重品です。気が付くと私も床に寝かされていました。「こんな看護婦はいらん」と、言われ掃除の方にまわされました。化膿した傷口についていて、体中を這い回っている蛆虫をほうきで掃くのです。頭が親指位に成長していました。あのように大きな蛆虫を、しかもあのように大量に見たことはありませんでした。もう今後もないでしょう。

玉音放送で終戦が知らされたことも、長崎の人は殆ど知りませんでした。憲兵隊が走り回って叫んでいました。すでに終戦になっていたのに、グラマン機が飛行し、配給品を分けている時にも橋の欄干すれすれに小型機が飛び、その度に征子を抱えて何度も防空壕に飛び込みました。怯えながらの生活でした。

そんな生活をしている時に、福岡に住む姉一家が「長崎が全滅した」と聞き、義兄が古い浴衣地で作った粗末な骨袋を持って来てくれました。鉄道の線路も破壊されていましたので、長与あたりからは徒歩での入市でした。家族全員が無事だったことを確認した時の喜びと安堵。骨袋を用意してくれた姉と義兄の気持ちを本当に有難く思いました。

終戦後すぐにアメリカ軍の上陸が始まりました。朝早くから大地をとどろかすような音が聞こえてきたので、家を飛び出すと路面電車の通る道を、延々と装甲車、ジープの列が続いていました。その車列は夕方まで途切れることがありませんでした。唖然として隣人達とその様子を眺めながら「こんな国に日本が勝てるはずがなかった」「これまでお国のためと耐えてきたのはなんだったのだろう」と、初めて戦争が終わったと感じ、手をとり合って泣きました。

◎母が聞いた話

当時、長崎駅前の西坂に居たという友人は、二階の窓から、警報が解除になった後、上空を飛んだB29を見たと言いました。白い繭玉の様なものを、三つ落として飛び去った。それらの繭玉は浦上の方へ流されて行った、か、と思ったら、ピカッと光った。側にいた弟さんが、姉である友人を庇い、伏せたので助かったが、弟さんは背中一面の火傷で、亡くなられたとの事でした。最近になって知ったのですが、その繭玉は落下傘で、投下した原爆の状況を伝える為の機械(ラヂオセンサー)が装備されていたとのことでした。

多くの犠牲者の中には、日本人ばかりでなく、韓国人、中国人、そして連合国軍の捕虜の人達も多く含まれていました。国境を越え、国籍や人種を問わず、たまたまあの日、あの場所に存在した人達でした。落下傘についていた機械は、アメリカ軍に原爆の効果以外は伝えなかったのでしょうか。一人ひとりの生活、その家族のことを、そして、生命の尊さを。

◎今、私が思うこと

以上お話したことは、母から繰り返し聞いたことや、母の覚え書きをもとに書いていたものです。母は4年前89歳で亡くなりました。胃がんと肝臓がんの他、いろいろの病気を抱え28回の入退院を繰り返しました。生前、これを読んだ母は甚だ不満の様子でした。体験した地獄の情景がこんな言葉では表現されていないからでしょう。他の被爆者の方も同じに感じられる筈です。広島・長崎と二発の原爆は今も尚、私達被爆者の中に、その家族の中に、病、苦しみ、悲しみ、怒り、そして不安を今日に至るまで残しています。にもかかわらず、私たち被爆者はその仕返しに何かをしたいと、考えたことはありません、それは私たちと同じ経験を、誰にもしてほしくないと心から願っているからです。核抑止力とは何でしょうか。抑止するためになぜ核兵器を持たなければならないのでしょうか。

私たちは、“ノーモアヒロシマ、ノーモアナガサキ、ノーモアwar”と訴え続けてきました。これこそが抑止力です。多くの核兵器を持つことではありません。戦争のない世界をつくる第一歩は、戦争を体験した者、またそれを聞いた者が、人が人を傷つけ、殺しあうことの恐ろしさ、愚かさをはっきり認識することだと思います。2015年NPT再検討会議は最終合意ができないという、大変残念な結果となりました。しかし158カ国が核兵器の非人道性を宣言しているのです。私たちの行動は、今日話を聞いてくださった皆さん、市民社会の力強い支援と共に続きます。今日長崎に来られた皆様、原爆資料館に行ってください、被爆者の話に耳を傾けて下さい。核兵器の恐怖への理解が深まると思います。さあ、次は皆さんの番です。私は今年ニューヨークで開かれたNPT再検討会議の要請団参加し、証言をした際にも“It's your turn.”とお伝えしました。皆さんの家族に、友人に、周りの人に、原爆について知ったことを話してください。それによって核のない世界へ向かっての第一歩が始まると思います。人間が“もの”として生命をなくすことがない世界に向かって、共に進んでいきましょう。

ご静聴ありがとうございました。

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