「私」の漢字道

特集「辞典のはなし」記事一覧

『角川新字源』(角川書店)編者 
阿辻哲次先生に訊く!

聞き手=杉田佳凜・任 冬桜
 

  『新字源』——かつて名著中の名著とうたわれ、各出版社に打倒を目指され、ついには師匠越えという形で玉座を追われた漢和辞典。『新字源』はいま、玉座奪還を目標に、二十三年ぶり、十年越しの改訂を行っています。その改訂作業のリーダーである阿辻先生に、漢字のこと、辞書のこと、いろいろお話をうかがってきました。
 

P r o f i l e
阿辻 哲次(あつじ・てつじ)
1951年大阪府生まれ。京都大学大学院文学研究科博士後期課程修了。専門は中国文化史、中国文字学。第22期国語審議会委員、また文化審議会国語分科会漢字小委員会委員として、常用漢字表の改定に携わる。
著書に「戦後日本漢字史」(新潮選書)「漢字道楽」(講談社学術文庫)「漢字のはなし」(岩波ジュニア新書)など多数。
 

漢和辞典はなんのための辞書?

  「そもそも漢和辞典というのは、漢文を読むための辞書だったんです。だから熟語を引いたら中国の古典が引用されていて、そこに出てくる熟語を説明するというのが基本的なあり方になっている。古代から江戸時代までの漢文学習の伝統を継いでいるわけですね。ところが現在の日本では、中国古典を読むというのは決してメジャーではありません。現代の漢和辞典にそういった位置づけはほとんどないのです。
 いまの日本の言語文化を見てみると、漢字を調べる辞書というのは漢和辞典ではないわけですよ。漢字辞典、しかもスマホのアプリの辞書だったりする。『新字源』は辞書史のなかでも光り輝く名著なのですが、そこに現代社会のニーズに合った漢字の意義を盛り込むというのが、私たちがしている作業になります」

 

漢字と行政は意外と仲良し

  「宮城県に『閖上』という地名があります。もとは『ゆりあげ』という発音しかなくて、江戸時代に殿様がその地域の景色から『閖』という文字を作ったんです。そして明治になって戸籍が作られるようになったのを機に『閖上』は全国区になって、戸籍が電算化されたときにコンピュータ上で書けないといけなくなった。コンピュータで使えるようになるということは、ISOという国際規格になる。そうなると世界中のパソコンや携帯電話で『閖』が表示できることになるんです。
 また常用漢字も行政と密接な関係があります。常用漢字というのは、役所やマスコミなどからの刊行物、法律などにおける漢字使用の目安であって、国民に対する漢字使用の基準ではありません。たとえば『謄』なんてまず使わない漢字ですが、役所の『謄本』などで必要だから、常用漢字に入っているんです」

 

漢字とコンピュータは意外と不仲

  「そもそも漢和辞典は電子媒体での活用が遅れていました。例えば『新字源』には約1万種類の見出し字がありますが、普通パソコンで使える漢字はJIS第二水準までの6,355文字です。ということは、通常のコンピュータでは『新字源』に入っている全部の漢字は出せないということになる。そのために漢和辞典は電子辞書への対応が遅れた。でもいまは技術が進みました。しかも今回の改訂では、『新字源』を作ってくれている印刷会社の協力で、紙媒体と同じ字形を電子版で出せることになりました」


 

文化の保存期間

  「私はいま漢字の歴史を研究しているのですが、最初の漢字は甲骨文字ですね。3,300年ぐらい前に占いの結果を彫り込んだ亀の甲羅や牛の骨は、いまでも中国の遺跡を掘ると出てくる。あるいはエジプトでパピルスに書かれた紀元前3,000年の文書もいろいろな博物館にいっぱい残っています。でも、果たしていま書かれた文書は、そうやって残ることができるのか。
 より快適なツールを開発することももちろん重要ですし、進んでいますが、それとともに既存の文化をいかにありのままで後世に伝えるかも重要だと思います。我々はヒエログリフも甲骨文字も読めますよね。同じように、1,000年後に人間がいるとして、彼らが現在の日本語や英語を解読できるか。
 現在の我々が知っている文化というものは、エジプトやメソポタミアから基本的に断絶していない。でも、その時代の文化を伝えてくれるメディアは単純なものですが、電子時代になった今のメディアはものすごく多様化しています。フロッピーディスクが端的な例ですが、50年後にフロッピーを読むツールがあるでしょうか。文化というのは断絶させてはいけないものです。辞書を含めた日本の出版は、そういう面を含めて大きな問題として考えていかなければならないと思っています」

 

ワープロに文章を操作されるな!!

「コンピュータは文体を変えています。『〜しはじめる』も、『〜できる』も、普通複合動詞の後の方は漢字で書かず、ひらがなに開きますね。ところがコンピュータの変換機能に関しては、少しでもたくさん漢字に変換する方が優れたソフトであるという間違った認識があったんです。このごろはずいぶんなくなりましたが、それでも雑誌を見ていると『〜し始める』、『〜出来る』がものすごく多いんです。一度変換されてしまうと、カーソルを戻して直さなければいけませんからね。面倒くさいことは面倒くさいですが、それが野放しになっているのが現状です。
 改善方法のひとつとしては、変換ソフトの学習機能を使うことです。最初に『〜しはじめる』だと覚えこませたら、次からはそれが第一候補として出てくるようになる。あくまでもコンピュータというのはツールなのだから、本人が書きたい文章をコンピュータに書かせるべきなんです。ところがいまは、コンピュータが書いてくれる文章が自分の文章だという間違った認識がある。
 でもワープロがなかった時代——私たちが子どものころは謄写版印刷といって、自分が書いた文字を刷っていました。だから下手な字も誤字もそっくりそのまま出てきて、文書を作成するというのは押し付け合いになる大変な作業でした。ここからワープロは解放してくれました。ブログにしろSNSにしろ、これだけたくさんの人が朝から晩まで思いっきり文章を書いているというのは未曾有のことで、そういう点で、電子機器の普及というのはたいへん良いことだと思います」

 

これから必要な漢字の力

「ただ、ワープロがあるからといって、小学校低学年からコンピュータで文字を書かせていいかというと、そうはいかない。いまお二人は手書きでメモを取ってらっしゃいますね。手で文字を書かねばならないということも、頻繁にあるわけです。そのためには少なくとも小学校で習う教育漢字にプラスアルファした程度の漢字は自由自在に書ける能力を身につけなければならない。
 でも、その知識を身につけた後、少なくとも大学生がレポートや論文を手書きで書く必要はない。そこをどれだけ上手に使い分けるかという時代になっていると思います。だから、これから先要求されるのは漢字を正しく使える能力。そして機械が勝手に変換してくる文章に対して、『文章を書くのは自分だ。俺はこういう文字の使い方はしない』とカーソルを戻して、消して、直して、ということをやらなければならないと思います」

 

辞典編集部から一言

「正しく漢字を使うという意味では、ぜひ漢和辞典を使ってほしいと思います。漢字の意味は、どういうなりたちでどう使われてきたのかということと切り離せません」

 
(取材日:2017年5月7日)
文=杉田佳凜
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杉田佳凜(すぎた・かりん)
広島大学四年生。使用している漢和辞典は『新漢語林』(電子辞書収録)。最新の検索履歴は「狆」。漢字の好きなところは、一目で意味が伝わるところ。漢字の困ったところは、しんにょうを綺麗に書かせてくれないところ。
 

漢字ミュージアムに行ってみよう!

京都市祇園の八坂神社前に、2016年にオープンした漢字ミュージアムがあります。1階は漢字の歴史を映像・グラフィックやハンズ・オン装置を使って楽しく学ぶことができ、2階は漢字の仕組みで遊べる、まさに漢字のテーマパーク! 漢字について知りたいことがあれば併設の図書館を利用したり、年末の風物詩となった清水寺で発表される「今年の漢字」も展示されているので、あの頃の一文字に思いを馳せたり……。あなたも漢字と仲良くなれるかも! 一度行くと、お友達に教えたくなる穴場スポットです。京都へお越しの際は、ぜひ足を運んでみてください。
 

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入館料  一般:800円 大学生・高校生:500円 小学生・中学生:300円
 


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