米村でんじろう先生インタビュー

でんじろう先生の仕事感や読書感について

ー先ほど古本屋さんで岩波文庫を読まれていたということなんですけど、大学時代は月に何冊くらいのペースで本を読んでらっしゃったのですか。

そんなに読んでないですけどね、お金もないから。古本屋さんがあって、そこに帰りがけに行くんですけれども、古い黄ばんだやつは安いんですよね。 薄いやつね。さっさっと読めるのはやっぱり小説とかですね。学生だったから、ちょっと思想とか哲学的なものを買うと、何が書いてあるかよく分からない。よく分からないけど、なんとなく無理して読んでいる自分が、なんとなく勉強しているきがしていた。「資本論」とか読んで、おーすげーとか思っていたけど、ほとんど意味が分からない。意味が分からないけど、こんなのを大学生は読むんだ、みたいに思っていた。まだ学生運動のなごりがあって、マルクスの資本論って大学生みんなの必読書のような感じでした。結局、「マルクスが言っている社会主義革命、共産主義革命が成功したら、一体どんなことになるんですか」って先生に聞いてみたら「そんなことは何も書いてないよ」って言われた。資本主義のいろんな矛盾は解決するけど、どんな世界がくるかは何も書いてないらしい。
読みやすかったのは小説ですね。特に短編系の。これは安いっていうものもあって、古典とか、ドストエフスキーとか、薄いやつを読んでいました。薄いと一日くらいで読めるんですよ。列車の中で読んで「おっ1冊読んだ」みたいな。そんな感じでしたね。とにかく読んでいた。暇だし、何もなかったし。貧乏学生だったから、本とかをパラパラパラパラ読んでいるのは多かったですね。そんなに猛烈に読書家ってことはなかったですけど、大学は図書館があるしね。だから読んだうちに入るのか入らなかったのか難しいですね。でも本は持ち歩いて、眺めてはいましたね。

ー先ほどの話で、出来ないって悩んでいた時は大変だったが、自分は向いてないと開き直ることで少しは気が楽になったとおっしゃっていました。それは教師のお仕事をやられている時も、同じような気持ちでいたのですか。

自分の思い込みで、自分は分かっていないとか、馬鹿だとか思うのも間違いで、飲み込みの早い人もいれば遅い人もいる。色々な人がいるわけで、その人なりに違う。僕は色々と悩むことがいっぱいあったなあと思います。大学に9年間いました。大学で4年、大学院で2年。その後、また就職もろくにせずに3年。研究生みたいな形で大学に残っていた。なぜそんなに長引いてしまったかというと、なんか染まりやすくてね、その後他大学の大学院を受けるんですけど、落ちるわけですよ。それでようやく進路変更しました。自分は大学出たし、教育への関心も多少は育ってきているし。近代教育史とかいろいろ読んで、面白くないんだよね、面白くないんだけど、やっぱりそういう大学だと思うから、一生懸命読んで、教育というのは大切なんだとか思ったわけです。日本の初等教育とかはけっこう優れている、いろんな実践例があるんだ、じゃあいい教師になろう、みたいな気持ちがだんだん出てきた。じゃあ教員になろうということで採用試験を受けて、29歳で東京都に就職をしました。だから切り替えが悪いんですね。まず思い込まずにやってみればいいんだと、後々すごく思いました。
浪人の3年間も、就職ができなかった何年間も、無駄とは思わないけど、でもそこまでやることもなかったなと正直思います。それを僕は、ずっと考えすぎていたと思うんですね。大学も入れるところに入っていれば、もうちょっと良かったと思うし、就職もそんなに研究職にとらわれずに、教員なら教員に早くなった方がよかったと、今はむしろ思います。あまり思い込みすぎずに、いろんな出会いとかきっかけとか、声をかけてくれる人とか、仕事のチャンスとかあったら、飛び込んで一生懸命やってみるということは、すごく大事。そこからまた次の芽が出てくるんでね。
僕は教員になってから、けっこう真面目でしたよ。本気でいい授業をしようと、理科教育法とかね、いろんな教育関係の言葉をいっぱい扱っていた。いい授業ができる教師になろう、生徒がみんな真剣に授業を聞き、夢中になって集中して授業を聞き、授業が終わったらパーッと皆集まって質問攻めされるような夢を持っていたけど、現実は全然違った。なかなか話を聞いてもらえず、興味を持たない、質問は来ないし、それどころか授業を抜け出す。出席を取るのも大変です。だから、 僕が抱いていたようなイメージとはかけ離れていた。

僕はそれで少しでも興味をひかせないといけないと思った。とにかくやれることは何でもやってみようみたいなことで、何年間もやって、授業に関係ないこともやりました。僕は夢中になってやって、それで5年か6年が経って、それでも目標があったら生徒が集中して授業を聞いてくれるっていう理想的な授業みたいなものは全然実現しない。だけどこちらはやれることを一生懸命やった。そのうち、じゃあ転勤してみようかなってことで転勤をし、次は普通レベルの受験校。そしたらこれがまた、逆カルチャーショックでね。今までいた学校は雑然としていて、先生も気さくだったんだけど、今度の学校はおとなしいんですよ。生徒がみんな授業中きちんと教室に座って、ノート取って、先生も静かで、どこの教室もそう。他の先生との関係は、それまでの学校では大変だった。良くも悪くもですけど歯に衣着せぬというか、言いたい放題ですよ。職員会議で進級とか卒業問題とかがかかってくると、卒業ができないという生徒がでてくるんですよね。そうすると担任の僕としては卒業させられないから、ヤバいって思うわけです。卒業単位認定会議では、担任としては「何とかお願いします」って言うんですけど、教科担当のところではダメだという人もいます。そしてだんだん煮詰まってくると、罵声が飛ぶ。僕なんかも完全に名指しで「お前のような教師がいるから、この学校がダメになるんだ」って言われました。
なんか全然違う、勉強といっても教科書を基準として、受験勉強を中心のような勉強が望まれているようだし、そういうことに先生方も疑問がなさそうだし、そういうものが僕はあまり向いていないから三浪もしているんだし、というようなことを考えていた。それで実験中心なことをやろうとすると、一部の生徒から反発されるわけです。「そんなことをやっていて受験は大丈夫なんですか?」周りの教師も、僕が実験をやっていると生徒を遊ばせているみたいな目で見るんですよね。自分のようなやり方は望まれてないんだなとすごく思いました。そこで、やっぱり教師も向いてないと、ようやく方向転換をし、結局11年かかったわけだね。その頃にはもう40歳。思い切って教師になって、それも悪くなかったけど、やっぱり最終的には限界を感じたんですよね。このまま自分が40代50代で教師をやっているというイメージが湧かなかったんですよ。学校という場が単純に良い場所ではなかったという意味ではなくて、僕の適性を考えた時に、とてもとても適性がないということです。このまま続けていても、ろくな先生にはならないなということが分かったので、見切りをつけました。