平和な世の中の実現に向けて私たちができること

松永さんの高校生までの平和活動に対する考え方はどのようなものでしたか?

長崎生まれ長崎育ちで、中学校までは義務教育で平和教育を当たり前に勉強してきていました。毎年夏に被爆者の方のお話があって、中学生までは、その話が「何か大切なこと」とか「平和のために考えなければいけないこと」って頭のどこかでわかっているんですけど、その反面「何でこんな怖い話を聞かなければならないんだろう」っていうところに疑問がありました。怖いし目を覆いたくなるような写真ばかりで見なくていいものなら見たくないという気持ちの方が強かったんです。でもその間にも確実に平和に対する思いは自分の中で芽生えてきていて。私が中学生の時までは、どちらかというと昔の戦争よりも、今あること。たとえば世界の貧困、今自分と同い歳の子たちが苦しんでいるんだということに関心があって。中学校までの夢が「自分でNGOを作ってカンボジアに学校を作ったりすることをしたいなと思っていたんです。なんとなく、世界に対して発信したいという思いがあったんです。高校生の時、部活をやらない代わりにできることはないかなと思った時に、新聞で「高校生1万人署名活動」というのを見つけて。被爆の継承というよりは社会貢献という感じ。活動の一環で、フィリピンに1万本の鉛筆を届けようというイベントがあって「ミサイルよりも鉛筆」という言葉に惹かれて、活動に参加しました。そこでのある女性との出会いが、人生を変える大きなきっかけとなりました。

下平作江さんという語り部をされている被爆者の方です。今まで聞いた講話の中で最も物理的に近い距離で聞いたんですよ。本当に手の届く距離でお話を聞いたときに、この話は今まさに自分の目の前にいる人が経験してきたことなんだ、ということを肌で感じたんです。下平さんの妹さんは自分で命を絶ったのですが、話してくださったのは「妹が死ぬ勇気を選び、私が生きる勇気を選んだんじゃない。死ぬことを選ぶ勇気がなかったのだ」ということ。その一言には、私たちが生活する上では想像を絶するような人生を原爆から受けたんだって気付かされました。話し終わった後に、私の手を握って「平和のバトンをあなたに」と言ってくださった。その時の手のぬくもりと感触。毎年毎年こうやって子供たちにお話ししてくださっているのは、被爆者自身のためじゃない、これからを生きる私たち、そして未来の子どもたちのために、もう二度と自分たちと同じ目に遭わせたくないからこの話をしてくれてるんだということに、その手に触れることで、ハッとさせられました。本当にこの声を聞けるのは私たちが最後の世代なんだ、10年後20年後はこの人たちの声を誰が聞けるんだろう、この人たちがいなくなった後の世界はどうなるんだろうって。私はそんな人たちにつないでもらった命で、その命をどう使うか。戦争の悲惨さや残酷さを知らないまま育った子どもが、本当の平和とはなにか考えることができるのだろうか。被爆者のおじいちゃんおばあちゃんが命をかけてまで伝えたいことは何か、ということを自分の活動の中で探し求めていくようにしている。その中で伝えたいことの大きな柱として、自分たちと同じ目には二度と遭ってほしくない、二度と被爆者を生みたくないということと、戦争をこの世から廃絶してほしいということ、ただそれを願うばかりではなく、それは実現できることなんだということを強く強く伝えていたんです、被爆者の方々は。もちろん今も伝え続けています。

被爆者が「かわいそうで特別な人」ではないと気付いたのはなぜですか?

私にとって被爆者は、中学校までは「かわいそうで特別な人」でした。でもそれって他人事だったんだなって。被爆したということを、戦争時代で食べたいものも食べれなくて、ただただ可哀想だな、昔の話だし自分には関係ないって思っていたのです。その当時を生きた人たちが経験したことなんだと、もっと身近に感じるためにはどうしたらいいのか、ということが今の活動につながっていきます。私が、まだ高校生だった10年前の4月4日に下平さんに出会って。それまでは、なんとなく社会貢献ができればいいなと思っていました。長崎に被爆3世として生まれたことの使命感というか、「私たちがやらなきゃ」という気持ちでやっていました。そうしながらも活動を続けていく中で、たくさんの疑問が出てきました。あるときは核兵器廃絶のための署名活動をしている時に、年配の戦争体験者の方から急に道端で怒鳴られて「お前らに私たちの何がわかるんだ」と言われました。そしてあるときは、被爆者の方から聞いた体験談を同世代の高校生に伝えるという機会がありました。私の口から聞いた言葉には体験が伴わないので伝わり辛く、被爆者の思いを届けることはとても難しいのだと感じました。

被爆者の気持ちに寄り添おうという気持ちはあるけれど、この人たちの体験はあくまでこの人たちのものでしかないんだ、ということを実感したのです。

もちろん、被爆体験という一部分だけ切り取ってお伝えすることもできます。ですが、戦争体験してない人にその当時のことを話して自分事として考えることがどれだけ難しいことなのか。それでもどうにかして、伝えていかなければならないということを考えさせられました。

被爆講話を私が語り継ぐっていうのは何か違う、「じゃあどうしたら・・・」と悩み続けながら大学生になりました。大学生は大学生にしか出来ないことをやろうと思った時に、夏休みが長くて自由な時間がありますよね。そこで、内側ではなく外側の世界を知りたいという気持ちが大きくなって。当時、長崎大学教育学部に通っていました。周りが必死に教員採用試験の勉強をしていたとき、私はアジアを中心にバックパッカーとして一人で15カ国回って、自分の知らない世界を見に行きました。
テレビの画面で見ていた、貧困の激しい地域に住んでいる子どもたちのことを私は「かわいそうだ」と思っていたのです。
日本に住んでいると、自分基準に彼らのことを見ていたことに気づいたのです。どこか上から目線で彼らのことを「かわいそう」だと見ていたことに。彼らからしたらその生活が当たり前で、その生活の中から「楽しいこと」や「幸せ」を見つけてるんだなと。それは決して「かわいそう」ではないんだって。
そしてなぜか、その経験が被爆者や戦争体験者の人たちとリンクしたんです。戦争の時代を生きていた人たちにとって、当時の日常は特別なものではなく、彼らにとっては当たり前だったんだって。戦争をしていても、それでも生きなきゃいけなかった。戦時中にも、友達はいて一緒に遊んでいたし、質素なものが当たり前で、それを家族で囲んで食べられる幸せをちゃんと感じていた。
小さなことでも幸せを感じていたのに、一瞬にしてそれを奪ってしまったのが原爆なんだって。
今までかわいそうだと思っていたのは戦争体験者と私たちの「違い」ばかりを気にしていたからだって。でも、昔の人たちにだって今となんら変わらない恋愛感情があったと思うんです。そんなふうに当時の生活や感情から同じものを見つけていくことで、より身近に感じられるんじゃないかなって。これは「かわいそう」じゃないぞ、と。それと同時期にボランティアという言葉がいつのまにかあまり好きではなくなりました。人のためにしてあげている、みたいな感覚がイメージとしてあって。実際は決してそうではないのだけれど。これは人のためにしていることではなくて、全部自分のためにしていることなんだと知ることが出来ました。

被爆者の日常を書こうと思ったのですか?

ちょうど大学1年の時に、東日本大震災があって。その映像をテレビで見たときあまりにも衝撃が大きすぎて、まるで映画のワンシーンのように思えてしまったのです。そこには確かに人がいて、震災が起こるまでは多くの人たちが暮らしていたのに。心が追いつかず、かわいそうとか大丈夫かなという気持ちを超えて、すぐに動き出すことができませんでした。少し時間が経ち、心の整理ができたので自分にもできることを探して、福島の子どもたちを長崎に呼ぶプロジェクトに携わることに。社会人と学生がタッグを組んでこのプロジェクトが始まりました。東日本大震災から1年4ヶ月経って初めて福島に行きました。「地震が起きて津波がきて大火災が起こったんだ・・・」現地で焼け野原になった写真を見せてもらったとき、自分の中でリンクしてしまったんです。これどこかで見たことがある写真だ。あ、原爆資料館で見た写真だって。
 大学を卒業してから出会ったのが、城臺美彌子(じょうだいみやこ)さんという被爆者の方でした。「福島の原発事故は、被爆者として放射能の影響は避けられず他人事じゃない。一定期間だけでも放射能から遠ざけることで子どもたちの体を守りたい。」という思いから、長崎の被爆者と一緒に震災によって傷ついた家族を保養をすることになりました。
被爆者の方々と仲良くなっていくうちに「るいこちゃん平和のガイドになってよ」とか「自分たちの後継者になってほしい」と言われるようになりました。私の中で「やります!」と言える確かなものがなくて。先生をしながら夏の期間だけ被爆者のお手伝いをしていました。
同じ年、映画に出ないかという話が舞い込んできました。それが、被爆三世である私が主演を務めたドキュメンタリー映画「アトムとピース」です。
「原爆と原発ってどう違うの?」という、知ってそうで知らない疑問の答えを探しに旅に出るというものです。原子力という言葉で繋がれた二つですが、片方は小さな資源から大きなエネルギーを生む平和的な利用を、もう片方はすべての生き物を殺傷するための兵器として利用される。平和利用とは言えども原爆が投下されたことによって戦後、核アレルギーを持ったとも言われた日本にどうやって原子力発電が持ち込まれたのか。ということを被爆三世の視点で学び歩くというものでした。

そういうのは経験しながらも、なかなか大きな一歩が踏み出せず先生という職から離れられない自分がいました。
昨年、谷口稜曄(たにぐちすみてる)さんと土山先生という長崎の平和を牽引するお二人が去年亡くなられました。そのお二人も10年前下平さんにお話をうかがった後にお会いしていて。下平さんと同じように、「平和のバトンをあなたに」と手を握ってくれた。あのときから今までの10年間、多くの被爆者の方が亡くなられました。
 平和活動を始めてちょうど10年になるけど、私に何ができたんだろうって。「この思いを継承する」ってあの時誓ったはずなのに。。
そう悩んでいた頃、「この世界の片隅に」という映画に出会いました。その映画は、戦争時代を描いているにもかかわらず、ありふれた日常をメインに描いているという印象を受けて。戦時中にだって、彼らなりに幸せな日常ってあったんだなと気づくことができました。そこから、「日常」だったら自分にも伝えられるかもしれないと思い立ちました。
「自分の人生を変えてくれた原爆体験の語り部である下平作江さんと、自分の命をつないでくれた被爆者のおばあちゃん。この二人の人生の物語を書こう!」と、その時に思ったんです。
映画に出てくる主人公のすずさんっていう人は、フィクションだったんですけど、あの人は自分のおじいちゃん世代の人で、私にとっての長崎のすずさんがおばあちゃんや下平さんだなって思ったんです。
その人たちの話を「今」聞こう!って決意して。きっとこれを10年後、お金も貯めて被爆者の人たちの話を聞くぞ〜って思ったときにどれくらいの人が当時のことを覚えていて話せるのだろうか、と。もう「今」しかないって。作家でもあるまいし、文章力も実力もなく、お金もないし20代だし。周りの人から「やろうとしてることはとてもいいことだし、是非だれかにやってほしいけど、あなたが背負わなくてもいいんじゃない?」と言われることが多々ありました。でも、それでもやりたい。今の自分だからこそ伝えられることがきっとある。

 被爆の継承というものは、原爆が落ちた前後だけではなく、被爆者が生まれてから今までの人生を知ることで彼らの経験したことをより身近に感じることができる。家族でご飯を食べて、友達と遊んで、好きな人とデートして。わたしたちとなんら変わらない生活をしていた。その中に落とされた一発の原子爆弾によって、多くのものを失い、傷つき、その生活が一変したこと。
 大河ドラマを見てその主人公と自分と重ね合わせるように、その人の人生を知ることで、自分がまるでおばあちゃんの人生を歩んできたように受け取ることができれば、より彼らの思いを受け継いで話すことができると。その中で原爆を事実として伝えることが私の役割なんだなって思って、今に至ります。

平和を訴える手段は映画や本など様々あると思いますが、ほかにどのような表現方法があると思いますか?また、なぜ今回はあえて本を選んだのでしょうか?

平和を伝える手段としてはたくさんあって、映画もあれば本もあり、アートだってスポーツもその一つだと思います。私が一番大切にしたかったことが、無関心層の人たちにどうやったら少しでも関心を持ってもらえるか、ということだったんです。とはいっても、無関心という言葉を使いつつも、彼らの多くは無関心でもないと思うんです。
私の友達でも、普段の生活の中で「原爆ってさぁ、、」なんて話はしません。私も実際してないんです。それは友達とわたしにとって今の目の前の日常が全てだし、日常の中の営みが直接的に原爆や平和活動とリンクしないということは事実で。
それでも当時の記憶を風化させてはならないとするためには、平和を考える敷居を下げることが大事だと考えています。それはアートでもよければ音楽でもいいし、映画でも本でもなんでもいいんです。例えば、めっちゃイケメンが平和活動していて「やばい超イケメンいる!あの人がやってることって何?!私も行ってみよう!」という、下心見え見えのくだらない入り口でもいいと思うんです。まずは何のためにやってるんだろうと考える。結局これは、自分たちの未来のため。私たちが過去の大戦を事実として主体的に受け止め、自分が生きていくこれからの未来で、戦争を体験しないためにはどうしたらいいかと関心を持ってもらう。それこそ選挙に興味がない人がいるということや、投票に行けない人がいる社会の仕組みがあることが「おかしい」と一人でも多く気づいてもらいたい。その入り口を何にするかって色々悩んだんです。実際に今、本の執筆だけの活動をやっているわけではなくて、アーティストと組んで音楽やアートを使って平和のことを周知してもらおうという活動も行っています。
 平和を伝えていく手法がたくさんあるなかで、わたしは1冊の本を書きたいなと。じゃあその本は、今の若い子たちがみんないいよねってなるかと言われたら全然そうではなくて。今、出版業界ってなかなか厳しいですよね。ITが発達しいって、若い子たちの本離れが激化してる。でも映画を製作するとなっても、結局原作がベースにないとつくれないじゃないですか。平和を伝えていくためには、まず被爆者から受け取る活動がはじめに必要だと思いました。そのためには本をつくるのが第一段階だと思って。確かに世の中の本離れは進んでいるんだけれども、一冊の本っていうものには厚みや重さがあるじゃないですか。電子書籍っていう方法もあるんですけど、あえて一冊の本にしたい。人一人の人生にも厚みや重さがあるから、それとかけたいなと思って。
今後、教育現場でもその本を有効活用した平和教育をはじめとした、ワークショップなど子どもから大人まで、平和を考えるきっかけづくりのためのいろんな活動に広げられるなという思いから、本にしたいと考えました。「これがあるから平和を訴えることができる」その基盤がなければ、平和を伝えることができないなと思って。だからこそ、わたしが戦争体験者に直接話を聞き、自分の手で物語を書くっていうことに意味があると思ったんです。

「誰にでもできる継承」にこだわったのはなぜですか?

本当にありがたいことに、4年間ずっと小学校の講師として働かせてもらえたんです。一年一年転勤していく形でした。そのおかげで、1つの学校だけでは出会えなかったたくさんの先生や子どもたち、保護者の方々と繋がることができました。
大変さはもちろんありましたが、その繋がりができたことで、私と関わった子どもたちは私が映画やテレビに出ているのを見て「この人先生だったよ」と話すことで家庭でも平和についての話題が上がり、関心を持ってくれて。
「うちの子から先生のこと聞きました〜応援してます〜!」と言ってもらえて、本当に先生をやっていてよかったと思いました。
ありがたいことに教育委員会の方も見てくださっていて、他の学校にも講演に行かせていただく機会ももらえて。市教委の平和担当の先生が、「今までの平和教育は語り部さんがお話しするのをただ聞くだけの一方通行だったけど、これからは、相互に理解を深めることを大事にしなければならない。子どもたちが主体的学び考えるということを平和教育にも取り入れなければいけない。」だからこそ、わたしの活動が今後の平和教育にとってとても意義のあることだと話してくれました。
でも、誰にでも聞けばいいというものではなく、それを一番身近な人に話を聞くっていうことが「誰にでもできる継承」に繋がるんじゃないかなと考えました。手の届く距離で、人と人がふれあうことのできる教育環境を作っていこうと。自分がやっていることが、ちゃんと未来に繋がっていくんだということを実感させてもらいました。それがすごいエネルギーになっているんです。自己満足の活動に終わるんじゃなくて「誰にでもできる継承」という形でやっていくからこそ、いろんな人が共感して一緒にやりたいと手を上げてくれる。私にとっての一番身近な戦争体験は原爆であるけど、73年前には全国各地いろんな所で空襲があって、そのときにその場所で誰かが傷つき、永遠の別れを強いられ、一人一人に物語があったということが大切で。その事実は決して忘れ去られてはいけないことだと。なぜならば、自分たちの未来にも起こりうることだから。その危機感はいつでも持っていないといけない。集団的自衛権の行使の容認とか。憲法違反だけど、今まではイラク戦争でもアメリカ軍が戦っている一番後ろで傷ついた兵士を救護する役割で自衛隊が現地に行っていたが、今度は最前線で一緒に戦いましょうという協定を結びますよ、ということを言っている。そんな世の中になっているということを、まさに今考えなければいけないことなんだっていうことに気づいてもらうきっかけになるんじゃないかなって。政治がどうのこうのとは直接言わないにしても、子どもたちに講演をするうえで「何が大切で正しいことなのかは自分たちが考えて選択していかなければならないんだよ。」というメッセージを伝えていく必要があると思いました。

教育現場ではない別のフィールドに移ろうとしたわけではないのですか?

「今の教育はダメだから子どもたちに関わらない」というものでは全くなく、この活動をすることで、子どもたちに当時を体験した人たちのことをより身近に感じてもらうためにどうすればいいのかということを探る。外に出ることで同じ世代の人たちにも伝えることができれば、親世代にも伝わる。被爆二世にできなかったことっていっぱいあると思うんです。親が被爆者という、当事者と言ってもおかしくない人たちだからこそ、被爆二世にはできないけど三世にはできること。73年という年月が経ってしまったが、逆に今だからこそできることがある。それを実践したい。その思いを伝えると二世の人たちもものすごく共感してくれて。もちろんみんながみんな共感してくれるわけではないけれども、自分の意見とは違うから分断とするのではなくて。そういう意見もあるんだな、私はこうだけどあの人はこうなんだなと、多様性を認めるというか。その人はその人、自分は自分。それでもやっぱり共通項ってきっとあると思うんですよね。たとえば自衛隊。自衛隊はいない方がいいという人といた方がいいという人。でもどちらの立場も目指している社会は絶対、平和で安全な世の中だと思うんです。国が平和であってほしい、そのために今後軍隊になりうる自衛隊はいらないという人たちと、国を守るからこそ自衛隊はいるという人たち。世の中では、右翼とか左翼とか極端な言われ方をしている。それがすごくもったいないなって。目指している方向は一緒なのに、考え方が違うだけで争いが起こってしまう。日常の中でも意見が食い違ったり考え方が合わずに受け入れるのが難しいということは、今まさに自分も体験しています。どこかでお互い「ここは認める」ことができれば。教育現場だけでなく、社会全体に。自分も含め、そんな人たちを一人でも多く増やしていきたいからこそ伝え続けています。

松永さんは平和について伝えたり環境を作ったりすることをされていますが、とくに大学生ができること、今すべきことはなんだと思いますか?

わたしは大した人間じゃないので、そんなに偉そうなことは言えませんが(笑)私が大学生に限らずみんなに伝えたいことは、一人一人が主体的に過去の事実を受け止めて、その物事に関してちゃんと自分の頭で考える。戦争を起こさない世の中にするために自分にもできることはなにか、考えて行動に移していこう。だって自分たちの未来のためだから。私がつくる本は、直接的にそれを伝えるメッセージにはならないと思うけど、私はその言葉を絶対に伝えていこうって思っています。
「興味ないもん」と言ってしまう人たちに少しでも振り向いてほしい。おこがましいけど、何かきっかけをつくれたらなってずっと思っていて。
平和の活動を頑張っている大学生に対しては、「続けること」が大切だよ〜と伝えたいです。悩んでもいいから。まっすぐ進める人って誰もいないと思うんです。紆余曲折いろんなことがあっていいと思う。
それこそ私も世界に出てみて、いろんな人に出会って、おもしろい体験をしたからこそ、その積み上げがあって「今」があるわけで。
「これって大切なことだよなあ」って感覚を大切にすること。「これだったらわたしも頑張れる!」
そんな思いを持ち続けること。シンプルだし当たり前のことだけど、それが一番大事。私にとって平和活動をはじめてからの10年は、決して「署名を集め続けました」の10年間じゃない。
あぁもう頑張れない、被爆者の思いを受け止められないな、という日もありました。そういう時間も大事。それでも、たとえば結婚してとか自分の子どもが生まれてからとか、やっぱ平和って大事だよなと思ってまた始めるのでもいいと思う。平和を学び続ける心の余裕や体力と相談しながら、できると思ったときにすぐ行動に移せばいい。
それは時間がある大学生の「今」だからこそできることだとも思います。これしなさい、あれしなさいと言う権利は私にはありません。自分で見つけたらいいと思う。
 でも、今しかできないことがある。大学生は心も体も成長してる。長崎で平和教育を受けた子どもたちも、そのときは感じられなかったことでも、大学生になったこらこそ受け止められることがいっぱいあるはず。そのチャンスを逃さないでほしい。今だ、と思ったときに行動に移せるフットワークの軽さを持っていれば、社会人になって余裕がなくなり平和の活動ができない期間があっても、その先の人生で必ずつながってくると思います。休んでもいいから、あなたにできること、あなたにしかできない「平和」を見つけてくれたら嬉しいなと思います。

2018年9月18日(火)リッチモンドホテル長崎思案橋 にて