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「違い」に関する考察

名古屋大学 工学部物理工学科2年
徐 金鵬 XU JINPENG

みんなちがって、みんないい

わたしと小鳥とすずと

わたしが両手をひろげても、
お空はちっともとべないが、
とべる小鳥はわたしのように、
地面をはやくははしれない。

わたしがからだをゆすっても、
きれいな音はでないけど、
あの鳴るすずはわたしのように、
たくさんなうたは知らないよ。

すずと、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。

(『みすゞコスモス…わが内なる宇宙』矢崎節夫著)

八面山平和公園の由来
みんな違うけれども、大好きな仲間!

「違い」って?

これは私が日本語を勉強していた時に読んだ、一番印象深かった文書である。簡潔な文書なのに、異なるものの間の面白い関係が見てとれる。どちらのものにしても、他人が真似できない特徴をもち、そして、どれほど頑張ってもできないものもある。こういう「違い」の存在はいいのだと思う。でも、「違い」っていったい何?

子どもは周りのすべてに興味を持つ。「これは何?」「なんでそれになる?」という質問はよく聞く。認識したものが増えて、「異なる」という認識ができて、違う性別、違う年齢、違う色、違う数字。成長するとともに、科学で「異なる」の原因を勉強した。DNAがものの特徴を決め、さらに、原子、分子は物質の性質を決める。総括すると、二つのものが共に持たない点は「違い」である。人間と鳥では飛べるのは鳥だけ、人間と鈴では歌えるのは人間だけ、これは「違い」である。

「違い」は歴史の進歩になる。猿が歩いて人間に進化した。人間は手と違って道具を発明した。話すと違って文字を発明した。違うことが生まれると、いつも進歩につながる。

科学では、一つの問題には複数の解答がある。どちらでも正しいのである。哲学には同じ現象には違う理論で、違う結論が出る。「違い」があるからこそ、科学は前向きに進歩し続けている。

「違い」の応用は昔からあって、中国の孔子は個別教育の思想を重んじた。人間である限り同じ能力を持つことはない。孔子は違う能力の学生に対して、違う方法で教育する方法を進めた。違う人々がそれぞれもつ独特な長所を最大限に発揮できるよう、違う目標を設置し、教育する。

世界各国、また各民族には「違う」歴史と文明がある。どの文化も、この世界の組成に不可欠な部分である。自分の国の文化だけを尊び、ほかの国の文化に目を向けない人は、まるで井の中の蛙で、海の大きさを知らない。

例えば、バビロンのハンムラビ法典は、中国の最初の法典「法経」より1200年も早くできた。これほどの違いは、中国の5000年の歴史を自慢する人にどれほどの刺激を与えるだろう。しかし、真実は変えられないものである。

「違い」と人間

私が生まれてからすでに20年間経った。最初に目に着いた「違い」はパパとママで、毎日の生活で勉強し、この顔が父、母ではない。今考えたら、当たり前じゃないかと思うけど、赤ちゃんの私にとって、難しかっただろう。今年もう6歳になる甥は、とても可愛くて明るい子どもである。姉の話で、子育ては本当に大変であることを感じた。生まれたばかりの時は昼と夜の違いは分からなくて、寝る時間の規則がなかった。1歳になってから、習慣にさせるには、時間に沿って寝かせたり、起こしたりする。このように私たちは、様々な違いを認識し、勉強しながら成長する。

教育を受けるようになってから、「これはそれと違うよ」とよく聞かされる。様々なものにはそれなりのルールがあることを勉強した。箸でスープを飲めないこと、スプーンでラーメンを簡単に食べられないこと。お湯はちゃんと冷やさないと飲めないこと、こうやってミスしながら、生活ができていった。

学校に行ってから、違う性格、違う年齢、違う職業の人に出会って、いろいろな勉強ができた。「違う人には違う考え方があるよ」と教育され、今までの20年で人間の多様性は少し分かってきた。

愚か者はほかの人の長所を軽視する。自分以外の「美」を憎んで、復讐の心理に動かされ、他人に迷惑をかける。こういう人は他人の虐めによって自分の卑怯な人格と狭い心を完全にさらけ出す。逆に言うと、賢者は、ほかの人の長所と「美」を褒め、自分を励ましてより良い人間になるために生活する。

でも、そのような人々に出会わなければ、私は子どものままで生活するしかない。幼稚で未熟で、社会に貢献できない人間である。今まで出会った違う人のおかげで、私はいろいろなことに対応できるようになった。違う人との出会いによって、違う意見の価値が分かる。違う話のおかげで、自分の専攻以外にも面白いことの存在を感じた。

「違い」を勉強することによって、より豊富な知識と経験が蓄積されていく。「違い」は私を成長させる。

*「求同存异」

*求同存异(求同存異)大同につき小異を残す。共通点を求めて相違点を保留すること

様々な違いが溢れる社会で生きていくには、正しい態度と姿勢が必要だ。

2011年9月から、私は1年間日本の沖縄に留学した。留学する前は、興奮と緊張がいっぱいだった。人生で初めての外国で、すでに16年間過ごした生活と違って、見知らぬ文化、人間、環境、習慣の国で生活することで、私の人生は大きな影響を受け、今楽しく留学生活をおくれている基盤ができた。

日本に来て最初に苦労したことは、上下関係である。同じ学生なのに、1年上の人に必ず敬語を使わないといけないことにショックを受けた。中国では、私は大勢の先輩や後輩と仲良くして、年齢の違いにかかわらず楽しく生活していた。日本では、1年上の人との違いがはっきり分かる。日本では私は、高校2年になって後輩が来た時、距離感を埋めるため「敬語を使わなくてもいいよ」とよく言った。しかし、仲が良くなっても、後輩の敬語は変わらなかった。私にとって先輩より後輩との交流に慣れる時間が長かった。

また、"迷惑"に関する考え方の違いも実感した。新学期は寮の部屋が変わるから、たくさんの荷物を運ばないといけない。私は住みはじめて1年間しか経っていなかったので、荷物は簡単に運べた。休憩している時、一人の友達が苦労している姿を見て、「一緒に運ぼうか」と申し出て、最後まで協力した。終わってから、友達は感謝の気持ちだけではなく、お詫びの言葉のたくさん言った。一瞬に距離感を感じてよく話したら、日本人は自分でできる限り、ほかの人の手を借りないことが分かった。迷惑という意識が非常に強いと分かり、1年間の生活で、私はそれを完全に納得した。

この二つの例から、人間の考え方の違い、さらにその奥にある文化の違いについて思考した。どの国にしても、友達という関係がある。日本でも中国でも、こういう関係の基本は同じく尊敬である。しかし、尊敬の表し方が違うだけ。日本人は「言葉」と「正しい礼儀」を重視するのに対し、中国人は「言葉」より「心」を大事にする。そして、人口が多い中国では、他人にお願いすることは普通に理解され、納得されている。日本人は時間の意識が大事で、ほかの人の時間をより尊重するから、自分で頑張ろうとする姿がよく見られる。違う文化から生み出された違うやり方は、どちらがいいとは決められない。すべて魅力的なものである。

様々な「違い」から、その根本を考えて理解し、共通の基盤を求めることこそ、存続の一番いい方法である。

世界平和


「違い」を認め合える世界になりますように…

人間は知恵がある生き物であり、この知恵を運用する方法も違う。中国語には「満足は福」という熟語がある。現在の状況に満足すれば、不満がない。すべてのことを受け入れ、生活は楽しい。

もちろん、「満足」と違って「欲望」があれば違う行動をとる。より多い利益を得るために、ほかの人から奪う動きを生み出す。人間の知恵の進歩とともに、衝突のレベルも上がる。世界人口が増える一方で、戦争の被害者になる人数も増える。

過去はすでに歴史になった。戦争はどちらが悪いのか。違う人には違う判断がある。世界の広さは自分の目で見ないと分からない。教科書などを通してだけでは実感できない。

違いは存在する意味がある。しかし、違いは決して戦争の理由ではない。

違う人、違う民族、違う人種、違う宗教、違う国など、すべてのものが存在する意味がある、すべて尊敬するべきものである。

みんなちがって、みんないい

留学生同士、手をつないで

『Campus Life vol.52』より転載