大阪大学名誉教授
(前大阪大学保健センター教授)
杉田 義郎
現代、「ストレス」という言葉は耳にしなかったり、口にしない日がないくらい日常生活で頻繁に使われています。しかも「ストレス=悪」というような意味合いで使われることが多かった言葉です。ストレスの語源は「物体に圧力を加えることで生じる歪み」を意味する物理学用語ですが、1936年にカナダの生理学者ハンス・セリエ(Selye, H)が発表した「ストレス学説」が注目を浴び、その後、多くは生理学的な意味で用いられるようになりました。もともとは、精神的や肉体的に負担となる刺激が加えられて反応することによって引き起こされる生体機能の変化という意味でした。しかし、ストレス(stress)という言葉は、英語で「悲しみ、苦悩」を意味するディストレス(distress)に由来し、さらにdistressのルーツはラテン語のdistrictusで、これは心が別々の方向に引き離されて落ち着かない状態を指す言葉でありました。
なぜこのように言葉の語源を長々と説明するのかというと、「ストレス」という言葉が本来は学術用語であっても、一般的に使用されるとその言葉のもつ意味が伝わって人々の心に大きな影響を与えます。つまり、欧米圏ではストレス(stress)という言葉は明確にネガティブな意味合いをもっているので、それが一般的に使われると、多くのメディア(新聞、テレビ、一般書、インターネット等)を通じてその影響力は計り知れないものとなります。一旦、「ストレス」という言葉を使ってその意味合いやイメージをもつと、厄介なことに、とくにストレス要因がなくても何となく身体が緊張し、気持ちが重たくなるという現象が生じるのです。
それではなぜ、ネガティブな意味合いをもつ言葉を発したり、イメージを持つことでそのような反応を起こすのでしょうか。それを理解するヒントは動物の進化を考えることで理解しやすくなります。脊椎動物は進化して爬虫類のレベルになると、捕食者や縄張りに侵入するライバルなど、強いストレスとなる要因(ストレッサー)が加わると、「闘う(ファイト)」か、「逃げる(フライト)」か、「立ちすくむ(フリーズ)」かのいずれかのストレス反応を末梢器官と脳の感覚・運動領域、ストレス評価領域と実行系の中枢神経系、自律神経系と迷走神経とがネットワークを形成してプログラム化されました。
さらに進化して、鳥類、哺乳類となり、ヒト科の類人猿まで脳はより複雑なストレスに適応できるような脳や自律神経系などの調節機構を発展させました。後から発達した進化的に新しい脳、大脳皮質など脳領域は、爬虫類で完成を見た、進化的に旧い脳、脳幹や間脳といった脳領域の活動を抑制する作用がもつことから、より複雑で高度なストレス反応が可能になっています。迷走神経はその名称のように迷走の経路は進化の痕跡であり、身体の色々な機能の異なる器官をつなぎ合わせて、脳から各器官に信号を送るとともに、各器官の状態を脳に知らせる役割も担っています。ヒトは迷走神経を発達させているのでストレス反応系へのブレーキ機能を生かして環境への適応能力を高めることができます。
日本睡眠学会、日本スポーツ精神医学会(評議員)、日本時間生物学会、日本臨床神経生理学会、日本精神神経学会、日本脂質栄養学会、全国大学メンタルヘルス学会