大阪大学名誉教授
(前大阪大学保健センター教授)
杉田 義郎
現在の人間の先祖であるヒトはチンパンジーから約700万年前に分かれたといわれています。森林から草原に進出した後も、捕食者に狩られる長い歴史が続く中で、最も社会的な動物として進化を続けたと考えられています。社会性を発揮する上で、その鍵となったものは「共感力」と「利他性」であったであろうと考えられます。厳しい環境下でストレスや不安、恐怖を乗り越えて生き延びるためには、「共感力」と「利他性」が欠かせなかったことでしょう。協働で食料を調達し、皆で平等に分ける哺乳動物は人間以外にはありません。
前回のコラムでは、爬虫類は、捕食者や縄張りに侵入するライバルなど、強いストレスとなる要因(ストレッサー)が加わると、「闘う(ファイト)」か、「逃げる(フライト)」か、「立ちすくむ(フリーズ)」かのいずれかのストレス反応が生じると述べました。生死を争うような強いストレス状況下では、人間でも爬虫類と同じようなストレス反応が起こります。つまり、大脳皮質、特に前頭部が脳幹や間脳の働きを適切に抑制できない場合には、爬虫類レベルのストレス反応が出現します。もちろんそれが最適なストレス対処行動である場合もあります。火事の際に炎の勢いが強くなっているとき大事な物を取りに行かないと思って炎の中に飛び込んでは命を失ってしまいます。津波と同じで逃げるが勝ちなのは言うまでもありません。この種の反応は不安や恐怖が強い中で生じる素早い反応である一方、理性的なコントロールが利かないのが特徴です。
現代日本の日常生活や大学生活で、生死を争うようなストレスはまずありません。しかし、大学生活はそれまでの生活とは環境やペースが大きく変化します。地元を離れて下宿生活・寮生活を始めること、友達もいない全く新しい環境の中に飛び込むようなことは、相当なストレッサーになると思いますがいかがでしょうか。そのストレッサーが大きくて不安感や恐怖感を強くもつと、爬虫類が発達させた脳は危険な状態に直面したかのようにストレス反応を返します。「闘う(ファイト)」か「逃げる(フライト)」、あるいは行動が強く抑制されて「立ちすくむ(フリーズ)」が生じます。このような事態がしばしば起これば、まず学生生活を楽しむどころではなくなってしまいます。
今も自然の中で野性的な生活をおくって人々は、アフリカの草原でライオンに遭遇した時にどのような行動をとるのでしょうか。その行動には現代のストレス状態に直面したときの大事なヒントがあります。「彼らには共通している『プロトコル(儀式)』があって、それは歩くことが基本となります。けっして獲物のようにまっすぐ逃げたりはせず、落ち着いてゆっくりと、斜めの方向にライオンの視界から消えていく。その間ずっとライオンに話しかける。尊敬の念を込め、抑揚をつけて「立派なライオンさん」と呼びかけるのだ」(ジョン・J・レイティ&リチャード・マニング著、野中香万子訳:野生の体を取り戻せ! NHK出版、2014年より引用)そうです。
ストレス下でそのような繊細な行動の調節ができるのは前回に紹介した迷走神経によるブレーキの働きが大きいことを神経科学者のスティーヴン・ポーガス(Porges, S)が明らかにしています。人間は他者に共感し、利他性をもち、多様な意見を受け入れ、他者と協働して働き、学び、目標を達成するなどの社会的活動を通じて成長への強い欲求をもっています。そのような高度で柔軟な社会活動の遂行ができるのも、迷走神経が身体と脳と間の双方向情報交換を仲介し、それらに不可欠な複雑な活動を支えてくれているお陰なのです。しかし、私たちは普段、迷走神経や自律神経活動にほとんど気付きません。つまりほとんどが無意識下で調節が行われています。多様な迷走神経の働きは幼少時に安心・安全な生育環境の下で、養育者との良好な愛着関係の中で発達することも明らかにされていますが、思春期以降も安心・安全が保証される環境下でさらに発達し、人間的成長を縁の下から支えてくれると考えて間違いないようです。もちろん、不規則な睡眠・休養や不健康な食生活など生活習慣を続けていると迷走神経の活動は低下してしまいます。これらは一本の鎖のようにつながって機能していることは記憶に留めておくと良いでしょう。
日本睡眠学会、日本スポーツ精神医学会(評議員)、日本時間生物学会、日本臨床神経生理学会、日本精神神経学会、日本脂質栄養学会、全国大学メンタルヘルス学会