大阪大学名誉教授
(前大阪大学保健センター教授)
杉田 義郎
「成長」という言葉を私たちはよく使いますが、そもそも「成長する」ということはどういう意味で、どう定義されるのでしょうか。いきなり質問されても即座には答えにくいものです。それでは自分の経験から自分なりの言葉で表現してくださいと言われれば何とか答えられるのではないでしょうか。
「自分の限界が打破できたと感じた時」、「受け身で取り組んでいたのが自主的に取り組めるようになった時」、「継続して努力していたら、結果的についてくるものだと思う」、「経験を積み重ねることが成長につながる」などなど。
そのときに、私たちは過去の経験を振り返ると思いますが、苦労して、努力して問題を解決できた、課題を達成できたことを想い出されましたか。多くの成長を感じ取っている人々には、その回りに、成長を促してくれた人たち(ファシリテーター)がきっといるはずです。幼少時には、家族がファシリテーターの役割を専ら果たします。しかし、小学校入学後からは、教育の場の役割がずっと大きくなります。その中でも学びの先達者である学校の教師は非常に大きな役割を果たしてきたことでしょう。
ヒトは超未熟な状態で生まれます。自由に動くことすらできませんし、身体を支えることすらできない状態です。もちろん喋ることはできません。しかし、泣くことによって養育者らに不安感や不快感を発信して、無条件のサポート=愛情を与えられます。両親、祖父母そして保育士らにサポートを受けますが、幼いときは心身共に大人とは大きく劣る機能しか持ち得ません、とくにに身体機能にはおいては顕著な差があります。しかし、大人と比べて劣るから、自らの心身機能の劣性を悲観したり、引きこもったり、新しいことに挑戦することを思いとどまることはありません。やっとつかまり立ちができた幼児は何回もあきらめずに立ち上がろうとします。初めのうちよく転んでしまいますが、挑戦を楽しむかのように疲れ切るまで繰り返します。ついにほとんど転ばなくなり、今度は何も手がかりのない独り歩きに挑戦するようになります。
しかし、残念なことに人間は年齢を経るとともに知的発達はどんどんするものの、自意識が芽生える頃になると、自分を他人と比較したり、大人を含めて他人の評価が気になるようになります。「劣等感」を強く感じるのもこの頃です。なぜなら理想とする能力と自分を比較してみると大きなギャップがあるのは当然ですし、少し前をいく仲間を見ても明確な差と感じとれる知的能力を身につけてきたからです。ここで留意しなければならないことがあります。一般的に「劣等感」をもつことは否定的にとらえられることが多いようですが、それははっきり言って誤解です。「劣等感」は現実には向上心と裏腹の関係があります。その証拠に実力がないにもかかわらず自信過剰家は自身の能力不足にも無頓着で「劣等感」をほとんどもちませんが、このことは自分自身にとっても他者にとっても幸せなことでしょうか。
「劣等感」を向上心の表れと正しく理解できたら、つぎにすることがあります。今の自分を出発点として、向上心をもとに少しでも具体化できる目標を作り、行動に移すことです。その際に友人、先輩、家族に相談するのも良いでしょう。人類は身体的には他の動物と比べて多くの面で劣っていますが、共に生き、他者や社会に貢献する行動をとれることを幸せに感じることで様々な困難を乗り越えてきたのです。そこでも大事なことは、最終的に決断は自分自身がするということです。やってみて上手くいかないこともあるでしょうが、それで良いのです。極論をいえば「失敗」からしか真の「学び」はありません、つまり「成長」もないといえるのです。新しい実験をする場合を想像すると理解しやすいかも知れません。最初から新しい実験が成功すると思う人はまずいないでしょう。
また、一方、逆の立場にある教育者といえる人々の責任も重大で、彼(彼女)らの営みを温かく見守り、サポートすることです。それは取りも直さず自らの「成長」を保障することにも直結しているのですから。
日本睡眠学会、日本スポーツ精神医学会(評議員)、日本時間生物学会、日本臨床神経生理学会、日本精神神経学会、日本脂質栄養学会、全国大学メンタルヘルス学会