大阪大学名誉教授・関西学院 産業医
杉田 義郎
空腹時の血糖値(血液中のブドウ糖濃度)が高い人たちを糖尿病といいます。また、空腹時には正常範囲であっても、食事後に血糖値が基準を超えて跳ね上がる人たちは糖尿病予備群といわれます。この状態が長年続くと多くの人が糖尿病を発症します。現代の日本では糖尿病の患者さんと糖尿病予備群の人を合わせると約2,000万人にのぼると推定されています。血糖値が高くなるのは、インシュリンというホルモンの分泌が少なかったり、あるいは作用が低下したため、血液中のブドウ糖を細胞の中にブドウ糖を十分に取り込めなくなったことによります。日本人は遺伝的にインシュリンの分泌量が欧米人よりも少ないことが分かっています。
ブドウ糖は身体を維持するための重要なエネルギー源であることは皆さんよくご存知だと思います。脳は重量当たりの必要エネルギー量が最大の臓器です。脳は全身が必要としているエネルギーや酸素の約20%を消費しています。脳への血流が5分間以上途切れると、重大な脳障害や死に至ります。手足の筋肉のエネルギー消費は睡眠中には減少しますが、脳全体では眠っている時でも安静時と比較してエネルギー消費はそれほど減少するわけではありません。脳には常に安定したエネルギー源の供給が必要なのです。一方、何らかのストレスがかかると脳はそのストレス対処に動員される関連脳領域のエネルギー必要量が急上昇することが分かっています。
「脳は(脂肪やたんぱく質ではなく)ブドウ糖を唯一のエネルギー源にしている」と皆さんの多くの方は教えられ、信じているのではないでしょうか。それと関連して、夕食から朝までは眠っている間は何も食べていないので、朝食にはブドウ糖の供給源である炭水化物をしっかり摂らないといけないと教えられたのではないでしょうか。一方、肥満の解消や食後の血糖値の改善効果について、「低糖質ダイエット」あるいは「糖質制限ダイエット」がテレビや雑誌等で紹介されて話題になっています。皆さんの中にも「糖質制限ダイエット」に関心をもっているが、リバウンドがあるのでは、低血糖状態になってイライラしたり、気分が落ち込んだりするのではと心配する人も少なくないと思います。
そんな疑問に少しでもスッキリとするように解説をしたいと思います。まず、「脳はブドウ糖を唯一のエネルギー源にしている」ということが栄養学的に正しいのかについて解説しなくてはなりません。結論的に言うと「脳はブドウ糖以外にも乳酸やケトン体をエネルギー源にしている」が正解です。むしろ、乳酸やケトン体という物質を積極的に利用しているときの方が脳は冴えているとさえいえるのです。その分かりやすい例が、筋肉にやや負荷をかける運動をしているときに乳酸が産生されます。また、空腹状態が続くと脂肪の代謝が活発になりケトン体が産生されます。乳酸もケトン体も水溶性で血液中から脳内にスムーズに入って脳の神経細胞のエネルギー源として使われることが分かっています。このようなときには同時に肝臓は脂肪やたんぱく質からブドウ糖を合成して、血糖値を安定させるように活動しています。
以前のコラムで、脳は身体運動を巧みに行うように生物の進化の過程で発達してきたと解説しました。現代型の仕事スタイルはじっと机の前でパソコンに向かって座って作業しているイメージが定着しています。しかし、実際には体を動かしたり、歩いたりしている時の方が脳の活動は活発で、脳は課題に集中し、問題を解決しやすいのです。それには脳へのエネルギー供給の面でも上記のように多様なエネルギー源(ブドウ糖、乳糖、ケトン体)を利用できる状態であることからも裏付けられます。
人類の歴史を約700万年とすると、中近東で小麦栽培が始まる約1万年前までのほとんどの期間、人類は狩猟・採集生活を送ってきました。狩猟・採集生活の時代は食物の総エネルギー量に対する糖質の占める比率は、現在もまだ狩猟・採集生活を送っている人々の調査から12%程度であったと推定されています。一方、産業革命以降、現代では食物の総エネルギー量に対して糖質の占める比率は50%以上になっています。電化製品や交通機関が発達した現代では家事や仕事における省エネルギー化がなされた結果、先進国の人々は深刻な慢性の運動不足に悩まされるようになっています。
現代のような生活の下で糖質、とくに精製した糖質の占めるエネルギー比率が高い食生活をしていると、食後に高血糖を生じやすく、かつ、その後に血糖値の急激な低下をしばしば招いて(抑うつ、不安やイライラ感、異常な眠気などの不調を伴いやすい)、余剰な糖質は中性脂肪に変換されて脂肪細胞に蓄えられ(体脂肪増加)、体重増加(肥満)につながります。
次回は、これらの心と身体の問題を両方とも解決する、正しい「ゆるやかな糖質制限ダイエット」を分かりやすく紹介します。
日本睡眠学会、日本スポーツ精神医学会(評議員)、日本時間生物学会、日本臨床神経生理学会、日本精神神経学会、日本脂質栄養学会、全国大学メンタルヘルス学会