「これからを生きる大学生へ、未来を創る人々へ」
〜本を読む人、読まない人、読書に興味がある人、興味がない人〜

全国大学生協連 大築 匡

Vol.13 効率化の時代に、「あえて読む」意味を考える

「本を読むのはタイパが悪い? 講義の課題図書を敬遠する大学生たち」という記事を読んだ。

AERA DIGITAL

たまたま目についたAERA Digital版の記事だ。

この記事によると学生たちはレポート作成のため推薦図書を読むことが金銭的にも時間的にもコスパが悪いと感じており、AIによる要約を見ることで済ませているらしい。

それはさすがにどうなの?と思うが、じゃあ何がいけないの?と正面から聞かれたとしたら私にちゃんと答えられるだろうか。ちょっと自信がない。

実際、私自身も仕事でChatGPTやAI検索を便利に使っている。この原稿を書くにもアイデアにつまったらChatGPTにヒントをもらって書いているし、書き終えた文章を読ませて「てにをは」の誤りなどがないかチェックもさせている。もっといえば、このWEB記事自体、1週間以上前に読んだものでタイトルもサイトもあいまいで、自力では検索できなかったが、ChatGPTに聞いてみたらすぐにソースにたどり着けた。私にとってアイデアの壁打ち、文章添削、情報検索などで、AIは頼りになる相棒だ。

AIの要約はそもそもそんなに有用なんだろうか?疑問に思ったので自分でもやってみた。

寝る前10分、ちょっとずつ読んでいるロジェ・カイヨワ『戦争論』法政大学出版局の要約を800字程度で、とChatGPTに指示してみたら、待つこと数秒で結果が出た。正直、打ちのめされた。このレベルの要約を書きなさい、と課題をだされても果たして私にできるだろうか。しかも数秒で。よく読むと、要約というよりWEB上にあるいろいろ方の書評のパッチワークのようなのだが、それにしても適切にまとめている(ように見える)。

もし「読むこと」が情報の効率的な摂取のためだけにあるなら、たしかにAIに任せたほうが早い。でも、読書の本当の意味って、もっと面倒くさくて、非効率なところにある気がする。

たとえば、何気なく読んだ一文にふと過去の記憶が呼び起こされたり、全然関係ないと思っていた別の出来事とつながったり、そんな偶然の化学反応が起きる。AI要約では、そういう「余白」がごっそり抜け落ちてしまう気がする。

もちろん、学生たちの気持ちもわかる。課題は多いし、レポートの締め切りに追われれば、全部を丁寧に読む余裕なんてないだろう。

でも、それでも「読まずに済ませる」が当然になってしまったとき、何か大事なものが削られているんじゃないか? 

「読んでないけど、わかりました」と言えてしまう世界に、私たちはどこまで納得できるのか。大学のレポート課題図書は、確かに読みやすい本ばかりではないと思う。分量も多いし、専門用語もあるだろう。前提知識がないと読み通せないものかもしれない。だが、そうした歯ごたえのある本と格闘する時間が無意味だとは私にはどうしても思えないのです。

情報を早く手に入れ、効率よく処理する力はこれからの時代ますます必要になるだろう。だが一方で、時間をかけてゆっくりと考え、立ち止まる余裕も同じくらい大切なはずだ。「読まなくてもわかる」時代に、「読む」ことが持つ意味を、もう一度私たちは問い直さなければならないのかもしれない。