「これからを生きる大学生へ、未来を創る人々へ」
〜本を読む人、読まない人、読書に興味がある人、興味がない人〜

全国大学生協連 大築 匡

Vol.17 戦争について読むということ

夏休み中に、戦後80年目の8月15日を迎えた。少し個人的な思い出を書いておこうと思う。

自分が戦争というものを明確に意識したのは確か中学生のときの読書感想文の課題図書として、早乙女勝元の『東京が燃えた日』を読んだときのことだと思う。この本の内容というより、読んでいるときに母から聞いた体験談を今でも覚えている。母は東京の下町に住んでいたが、3月10日の空襲のときは疎開で東京を離れていた。戦争終結後、東京に戻った母は、一面の焼け野原に変わり果てた町を見た。土手を歩いていたとき、焼けた脂のせいなのか、人の形に草がいつまでも生えないところがあったのを鮮明に覚えているそうだ。もっとずっと後のことだが、3月10日の下町大空襲に係る父の体験談も聞いた。父は当時、中学生だったが、疎開はしていなかった。空襲のとき、リアカーに家財を載せ、一家で東京の神田から埼玉県の草加あたりまで逃げ、そこも空襲があるかもしれないとのことで、千葉県の船橋まで逃げたそうだ。

こういう体験を聞いていたからか、私にとって戦争とは、市民の命と生活を根底から破壊するものであるし、絶対に避けなければならないものとしか思えない。世界の何処かで今も続いている戦争について見聞きするとき、戦火にさらされる市民のことを思い浮かべずにはいられない。

だが、このような戦争被害者としての視点だけでは、戦争を考える上で二つの重要な側面が抜け落ちてしまうかもしれない。

一つは、戦争の加害性と戦争責任の問題。もう一つは、実際に戦場で戦った兵士の実像だ。

前者については、私は家永三郎の『太平洋戦争』『戦争責任』という本で学んだ。

後者については岩手県農村文化懇談会編『戦没農民兵士の手紙』菊池敬一・大牟羅良編『あの人は帰ってこなかった』日本戦没学生記念会『新版 きけわだつみのこえ』などが印象に残っている。

歴史書を読むうえで、空を飛ぶ鳥の視点と地をはう虫の視点があると思う。自分はどうしても、虫の視点から読んでしまう。虫の視点は人々の生活や日常の営みからの視点だと思う。残された手記や証言記録などには、細々とした日常も書かれている。戦争は戦争指導者だけが行うものではない。巻き込まれたり動員されたりしたにせよ、積極的に加担したにせよ、いずれにしても民衆の膨大な戦争体験がある。個人の残した手記からは戦争の全体像は見えない。銃後の日常からは戦場は遠い。戦場の兵士も戦闘だけをしているわけでもない。だが、こうした細部こそが戦争のリアルを語っていると思う。

鳥の視点からだけで考えると、歴史的事実の細部が抜け落ち、観念だけで戦争を語ることにつながるのではないか。戦争についての言説に「〇〇史観」というようなレッテルを貼ってわかったふりをするだけのことになるのではないか。

NHKの世論調査によると、戦争から80年が経過し、戦争体験者は日本人全体の1割未満になっているそうだ。実際、戦争体験を聞く機会はほとんどないだろう。しかし、日本が戦後80年戦争をしてこなかったのは、戦争の記憶が社会の中で継承され、反省と悔恨の情念が共有されてきたからだ。そう考えれば、戦争の記憶が風化することは、日本が再び戦争をする国になる道につながる一歩だと私は思う。直接体験を聞くことが難しいのであれば、ぜひ戦争について記録された本を読んでみてほしい。そして感じたことを誰かと語り合ってみてほしい。そうした一人ひとりの小さな行動の積み重ねが、戦争の記憶を継承する営みとなり、平和への道につながる一歩になると私は信じている。