全国大学生協連 大築 匡
議論や対話において、最も注意すべきは『言葉の意味』そのものだ。人は同じ語を用いていても、その背後にある定義やニュアンスが微妙に異なることが少なくない。誰かと議論したり、感想を述べたりするときに「この言葉はどういう意味で使っているのか」に注意を払わなければならない。たとえば人と話していて、なぜか誤解された経験はないだろうか。実はそれが、言葉の限界を示している。言葉は不完全で、相手に自分の気持ちや本当の思いを伝えてくれない。人と人が言葉をかわしても、常にすれ違いや誤解が生まれ、時に悲喜劇を生む。会話はキャッチボールのように見えるが、実際にはボールが少しずつ歪んで相手に届いているのかもしれない。
自分の本当に言いたいことが時にうまく相手に伝わらないということは、相手の言いたいことを自分もきちんと受け止めていないことが多いのかもしれない。日常的な会話ですらこうなのだから、抽象的な内容を含む会話はよりいっそう困難を抱えていることだろう。
専門家同士の会話なら、専門用語の厳密な定義と用法を知っている者同士の会話なので誤解は少ないのかもしれない。それでも誤解の種は尽きず、すれ違いがなくなることはないだろう。専門家が一般向けに分かりやすく語るときは、言葉の解像度は粗くなるはずだ。そうしなければ門外漢には何のことかさっぱりわからない。だが、厳密さを犠牲にした言葉は、受け止める側の勝手な用法を許してしまい、専門家からすると噴飯物の議論がなされてしまうかもしれない。
門外漢同士が聞きかじりの知識やネットで拾った言葉で議論したらどうなるだろう。落語の熊さん八つぁんのように頓珍漢な会話が繰り広げられるのが落ちだ。顔を見合わせて会話しているのならまだいい。笑いにも昇華できる。しかしこれがネット空間での匿名同士の議論となると、笑えない結果になるかもしれない。単なる誤解やすれ違いで終わらず、対立や分断を広げることだってありそうだ。独りよがりな言葉の使い方、相手の主張への無理解は、人と人が対話をしているのにそれぞれが自分の中に閉じこもっているようなもので、実に寂しい。
多様性や他者への寛容さが急速に失われつつあるのではないかと心配している。それはまだ海の向こうの出来事で、自分たちの身近にはないことかもしれない。しかしながらニュースで見る世界の出来事は、明日の自分たちの姿かもしれないし、実は私が知らないだけで私の足元にも波のように密かにおしよせているのかもしれない。
他者を知ることとは、言葉を知ることだ。そのためには多くの人に普遍的な、共通の意味をもった言葉を大切にしないといけない。言葉はしょせん不完全な道具だ。言葉は、人間の思考や感情を媒介する不可欠の装置であると同時に、言葉そのものが不完全であるがゆえに、私たちの意図は必ずしも正確には伝わらない。このような言葉の限界性を知ったうえで、それでも他者とつながり対話をする。そのために言葉の意味を知り、言葉の背景にある論理や思想や意思を読み解くことが必要だ。私はそのために本を読む。