羊といるかと猫 ー いるかホステル ー
8月の後半、帰省を兼ねて2週間ほど旅をした。名古屋から岐阜市、郡上、高山と北上し、週末は富山の山奥で毎年開催される演劇祭に参加した。日曜の夜、野外舞台で観た芝居を最後に、闇の中を蛇行する山道をマイクロバスに乗せられた我々は恐ろしく思いながら街へと下った。その後の平日5日間をすごした宿を紹介する。
そこは「いるかホステル」といって、富山駅北の水辺のビルの2階にひっそりと佇んでいるけれど、水は水でも海ではなくて川である。さらにいえば運河であるから、当然ながらいるかはいない。ではなぜいるかホステルなのか。答えは小説のなかにある。それと知らずぼくはその小説を読むことになった。

長い窓際の廊下を抜けた奥には小さな図書室がある。陽が昇りきってから落ちきるまでのほとんどすべてをぼくは図書室に費やした。朝遅く起き昼ごはんを食べ富山の地酒を飲み宿に帰れば図書室に引きこもりひたすら本を読む。なかば義務的な読書だった。他に利用者はいなかった。図書室を独占する、それは朝早く登校して昨日借りた本を返すために真っ先に向かう小学校の陽にあたたまりつつある図書室の、ほの暗くすこしカビ臭いけれど清々しい独り占めのひそやかな快さ。
実をいうと、ぼくは読書がそれほど好きではない。読むスピードはかなり遅いし、読んでいる最中に身体がムズムズしてきて苦しい。それでもしぶとく読み進められたのは、きっと図書室の空気が肉体の次元で合致していたからなのだろう。

ぼくは『羊をめぐる冒険』を読むことにした。言い忘れていたが、この部屋には村上春樹の本しかない。
それだけで“村上春樹的状況”ともいえる蔵書の傾きは、オーナーとっておきのこだわりである。本だけではない。コーヒーテーブルやティッシュケースなど、村上作品をオマージュした小物も置かれている。図書室の外にも本棚はあって、他の本や漫画が並べられてはいるものの、村上春樹を読むとなるとやはり図書室にこもらなければならない気がする。
そのまま2日が過ぎた。文庫の下巻に差しかかり、とうとうぼくは本の中でいるかホステルと出くわしたのだった。正確には「いるかホテル」、さらにいえば「ドルフィン・ホテル」なのだが。ある特殊な羊を探しに札幌へやってきた主人公とそのガール・フレンドが拠点とした宿。これが名前の由来である。ぼくはいるかに含まれながらいるかと出会う。はるか昔から仕組まれていたかのように。

この宿を語るにあたって、看板猫の存在は欠かせない。オスのハマチとメスのふくらぎ。出世前のブリにあやかって名づけられた。とてもかわいい。ずいぶん癒された。猫はあざといとよく言われるけれど、むしろあざとさのプロフェッショナルとして、こちらの浅はかなあざとさを見透かされているようで恐ろしい。思えば小説にも猫が出てきた。その猫はのちに「いわし」と名づけられる。そしてぼくは想像するのだ。羊と猫が一匹のいるかを挟んで並び、群れをなして透き通った川の中を流れるように走り去る姿を。

いちばん読書がはかどるのは電車のなか。小刻みに揺れるシート、うるさいけれど気にならない音。目が疲れたら車窓を眺める。移動中に本が読めるから、最近の趣味は月に一度の週末旅行。先月は京都でダンスと能を観ました。
今回 訪れた場所