私だけの漱石と出会う場所 ー 夏目パージアム ー
私にとって文学館や記念館に行くのは、友達に会いに行くことと似ている。
声が聞こえてくる場所だ、遠い時代を生きた文学者達の声が。原稿用紙に残された、何度も書き直した跡、心なしか浮ついた文字が綴られている友人宛への書簡、手垢のにじんだ愛用品……。そこにあるもの全てが彼らの生きた姿を伝えてくる。彼らのことを、ひとつ、またひとつと知っていくたびに、物語の世界には色が付いていく。葉桜が木漏れ日を浴びて柔らかな緑に煌めかせるように。そんな、文学館でしかできない、時を超えて旅をするような感覚が本当に好きだ。
漱石がかつて住んでいた場所に建つホテルの一角にある、「漱石の人柄から興味を持つこと」がテーマの、夏目パージアム。熊本での漱石の暮らしはもちろん、漱石の食事事情や愛用文房具等、漱石の生きた日々を体感できる、本当に素敵な空間となっている。tau libraryという、「熊本を歩く」「漱石をほどく」「文化とつながる」がテーマの、5000冊もの本が並ぶ図書館も併設されている。ホテルには夏目漱石をテーマにしたコンセプトルームもあるから、熊本で1日、漱石づくめの旅もできる。考えてみてほしい、最高ではないか、熊本でたくさんの自然に触れたり美味しいものを食べたりしつつ、漱石について思い切り楽しく学べるなんて。
夏目パージアムではどんな漱石と出会えるのだろうか? ここからは、私が実際に夏目パージアムを見てきたときの様子の一部始終をお届けしていく。

白と黒を基調としたスタイリッシュな内装。漱石の描いた作品の原稿用紙に飛び込んだようで心が弾む。失礼のないように髪の毛を整えて、いざ漱石の世界に出発!
意気込んだはいいものの、実は少し緊張している。漱石の作品を読むと私は、なんとなくヒヤッとする。自分の心の隅々まで見透かされたような気がするから。教科書の写真の深い黒味を宿した目の漱石と目が合うたび、背筋を伸ばしていた。

「どうも妻が俺のジャムの舐め方が烈しいと云って困る」
入った瞬間、拗ねたような、言い訳がましい声が聞こえた気がした。もしかして漱石? 目の前を見るとイチゴジャムがたっぷりと詰まった瓶が何個も並べられている。アイスクリームに汁粉、南京豆と甘いものに囲まれている漱石。こころなしか幸せそうで、同じ甘いもの好きとしてちょっと分かってしまうなと思ってしまう。

「朝起きて冷水にて身を拭ひ髯をそり髪をけづるのみにてもなかなか時間のとれるものに候」
今度は別の声が。前を見ると、自慢の口ひげを誇らしげに生やして凜々しい顔をした漱石が目の前にいた。よく見ると、飾られている写真は、年代ごとに髯の形が変化している。あの髯、そんなこだわりがあったんだ。
口髭に留まらず、服装にもこだわりを見せていた漱石。なんか、思っていた以上におしゃれさんだ。教科書ではいつも凜とした佇まいの漱石も鏡を見て、髯や髪と格闘した朝があったのかな。

別の場所からはガヤガヤとした若い声が聞こえる。どうやら授業中らしい。愛媛県尋常中学校に第五高等学校、東京帝国大学文科大学と、様々な学校で働いた漱石。きっと彼も模索をしながら、自らの先生像を築いていったのだろう。お弟子さんの語る漱石の姿やエピソードを知ると、熱心だったんだろうなと感じさせられる。厳しいところもあったけれど、その分面倒見もいい先生だったんだろうな。生涯先生だった漱石。なんだかんだ、人を放っておくことができないところがあったように思えてくる。
(ちなみに漱石作成の試験問題も飾られていたが、問題は全然甘くなかった。甘いものが好きなくせに)

漱石と実際にお喋りできるコーナーもあるこのパージアム。(AIで話せる仕組みらしい)まだ20歳を少し過ぎたくらいの、漱石の半分も生きていない私は、どんな話ができるのだろうか。芥川とかと比較されやしないだろうか。呼び出されて職員室に入るときのように、おそるおそる障子を開けると、
「よく来ましたね」
わっ、漱石がしゃべった。失礼のないように、私もそっと挨拶を返す。ドキドキしているのが伝わらないように、ゆっくりと話す。私が話している間、じっと漱石は私を見てきた。帰りも律儀に挨拶してくれた漱石。語尾まではっきりと言い切るような話し方が彼の生真面目さを表しているようだった。「また来ます」と小さな声で返したのはここだけのお話。

「あなただけの漱石をそっと教えてください」
会場の終わり近くにあったキャプション。
なんだろう、今まで考えていたイメージがもっとわからなくなってきた気がする。
今までずっと漱石は、人の心を克明に映し出す、冬の水面のようなイメージがあった。でもなぜだろうか、今は「それだけじゃないよな」と考えてしまう自分がいる。モノクロの写真を見ていたうちは分からなかった漱石に温度があるような。
ワクワクしている自分がいるのだ、「漱石とあの人の関係がもっと知りたい」「あの作品が読んでみたい」と。私にとって新しい漱石が見えてきた、出発点みたいな気がする。
現代の作家さんが『草枕』を新訳する連載や(私が行ったときは最果タヒさんだった)企画展も実施中の夏目パージアム。今度来たときにはどんな漱石と会えるのだろうか。
教科書には載っていなかった、あなただけの漱石と出会えるミュージアム 夏目パージアム。気になる方はぜひ、熊本で漱石に会いに来てほしい。
夏目漱石の作品で好きなものは、『草枕』です。近影の撮影場所の「上通(かみとおり:熊本市内)」には、漱石ゆかりの古書店があります。来熊130周年の今年、ぜひ、熊本で漱石ゆかりの旅をしてみてください。
今回 訪れた場所