協同組合の理念と歴史
Ⅰ 生協とは何か
生活協同組合(生協)とは何か、大学生協の歴史などを、協同組合の理念や歴史を見ながら考えていきます。生協は、自分たちの生活を守るためにお金を出し合い、商品を安く分け合うことから始まりました。「より良い商品をより安く」「より良い生活と平和のために」など、自分たちの生活の向上や安全を願う人たちが出資し、自ら運営する組織です。生協は株式会社とは異なり、出資者・経営者・利用者が一致しており、資本の関係ではなく人と人とのつながりを基盤に活動しています。各生協では、組合員一人ひとりの願いや生活背景に寄り添い、共感を広げながら取り組んでいます。組合員や役職員、地域の人々が知恵や経験を生かして活動する中で、新たな人間関係が生まれ、生協への信頼と喜びが高まっています。この共感の広がりこそが、生協の力となっているのです。
Ⅱ 生協法と定款に基づく運営
消費生活協同組合法(生協法)
日本の生協は1948年に制定・施行された消費生活協同組合法(生協法)に基づいて設立・運営されております。2007年5月、生協法が59年ぶりに改正され、2008年4月から改正法が施行されました。生協はこの法律によって社会的に認められた「法人」となっています。定款
各生協の定款は生協法に基づいて厚生労働省が定めた模範定款例に準拠しながら各生協の実態に合わせてつくられています。定款はその生協の憲法ともいうべきものです。すべての生協は生協法とその生協の定款に則って運営されています。生協の組織・運営に直接関係している組合員、総代、生協役職員などの活動は定款によって律せられます。Ⅲ 生協のおこり
協同組合は、ヨーロッパで資本主義社会が形成される過程で人々の暮らしに様々な矛盾が表れてきた時代に生まれました。協同組合の理念や協同組合の運動は、苦しい生活を強いられた労働者たちが、自らの生活を守るために生み出した仕組みです。産業革命が進んだイギリスでは、生産手段が大資本に集中し、労働者は低賃金・長時間労働と失業の不安に苦しみました。こうした状況を受け、思想家ロバート・オウエンは、利潤追求に偏った社会に対抗し、人々が助け合う協同の仕組みを提案しました。彼は協同生産・協同消費を目指して村づくりに挑み、失敗に終わったものの、後に「協同組合の父」と呼ばれました。1844年には、イギリスのロッチデールのフランネル工場で28人の労働者が1年がかりで貯めた1ポンドの出資金を出し合い、小麦粉やバターなどの生活必需品の共同購入を目的とした店舗を設立しました。これが生協の原型であるロッチデール公正開拓者組合です。協同組合運動は、資本主義の矛盾に抵抗し、協同の理念で社会変革を目指す取り組みとして広がっていきました。Ⅳ 協同組合運動のひろがり
1860年代の後半には、イギリスでは600もの組合が設立され、協同組合は急速に発展していきました。その後、協同組合運動はヨーロッパ全土に広がり、各国それぞれの特徴をもった協同組合が発展していきました。1895年には国際協同組合同盟(ICA)が設立され、現在では世界308組織、12億人以上が加盟しています。協同組合運動の基礎となったのは、ロッチデール公正開拓者組合の「ロッチデール方式」であり、これが発展して1938年に「協同組合原則」として公式に採択されました。1970年代以降、経済の変化と競争激化により、これまでの協同組合の歴史からその基本的価値が見直され、1995年には「協同組合のアイデンティティに関する声明」が採択されました。
2012年を国連が「国際協同組合年」と定め、協同組合の社会的認知度向上や発展促進を目指しました。さらにICAは「2020 Challenge」として、持続可能な未来に向けた戦略「ブループリント」を策定しました。2016年には、協同組合の思想と実践がユネスコ無形文化遺産に登録され、国際社会から高く評価されました。
2025年は国連が二度目の「国際協同組合年」であると定めました。協同組合は国連のSDGs達成にも貢献することが期待されています。
Ⅴ 日本の協同組合運動
日本の協同組合運動のおこり
日本の協同組合の始まりは1879年の共立商社ですが、上流階級の市民のみを組合員としたため「自らの生活を自らの手で守る」という協同組合本来の理念が弱かったこともあり、短期間で消滅しました。その後、第一次世界大戦後のインフレや社会不安、米騒動、経済恐慌などを背景に、大正デモクラシーの大きなうねりの中、労働者や市民による消費組合が各地で設立されました。賀川豊彦や吉野作造らの指導のもと、灘購買組合などが生まれ、連合体も形成されて協同組合運動は大きく発展しました。しかしながら、昭和初期の戦時体制下で、軍国主義化する政府からの圧迫や物資統制が強まり、1943年までにそのほとんどが解散に追い込まれました。戦時体制下に生協は壊滅状態となりましたが、敗戦後の1945年に日本協同組合同盟が結成され、1948年には生協法が成立、1951年には日本生活協同組合連合会が設立されました。戦後の食糧難と大衆運動の高まりを受けて、生協は急速に広がり、組合員数は約297万人に達しました。しかし、物資不足やインフレ、ドッジラインに沿って行われた急激な統制経済の廃止により、生協の経済基盤が崩れ、多くの生協が衰退していきました。
地域生協の発展と組合員の参加を基本にすえた日本の生協運動
ドッジラインの施行によって日本経済は恐慌状態に陥りました。企業倒産や人員整理が相次ぎ労働組合も分裂するなど労働者の生活や権利は後退していきました。このような経済混乱の中、労働者の生活・福祉への関心が高まり、労働者福祉運動が活発化し、1951年に全国労働金庫協会が設立されました。このような労働者の運動は地域勤労者生協の組織につながりました。地域勤労者生協は労働者主体でありながら地域生協の形態をとり、「町ぐるみ運動」を目指して地域住民に根ざした班づくりを展開しました。大学生協も各地で地域生協の設立運動を積極的に支援し、その発展に貢献しました。事業規模が拡大し発展した生協は、1970年代には経営的な苦境を迎えましたが、「組合員組織の重視」に立ち返って活動を見直し、班活動や共同購入が拡大しました。1990年代のバブル崩壊後も、生協は民主的運営とコンプライアンスに基づいた経営により危機を乗り越え、発展を続けています。生協数は547生協、組合員数3,063万人(2023年度 日本生協連 全国生協概況より)になっています。