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#06 楢原泰一さんインタビュー

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参加者
楢原 泰一
明治学院大学法学部政治学科卒業 東京出身・在住
百貨店勤務のかたわら、広島平和記念資料館や平和記念公園を案内するヒロシマピースボランティア、また被爆体験伝承者として活動している

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参加者
菊池 愛梨
全国大学生協連
全国学生委員会執行役員(当時)

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参加者
井上 恵里
全国大学生協連
全国学生委員会執行役員(当時)

学生時代
〜まったく平和運動と縁のない発想を持っていたと思います〜

今回はそのインタビューの最終回で、学生を終えられても引き続き平和活動をしていらっしゃる楢原さんのお話を聞かせていただこうということになりました。 本日はよろしくお願いいたします。

そういう機会を与えていただいて、大変有難く思っています。私の話が何か学生さんのお役に立つのであれば、嬉しいです。私も皆さん程は関わってはおりませんが、学生時代は明治学院生協の学生委員長をやっておりました。

楢原さんは、在学中はどのような学生だったのですか?今、平和に関する活動をされていますが、当時もそのような感じで社会に目を向けられていたのですか。

私は、明治学院大学の法学部政治学科に入学しました。政治には関心がありましたが、核はあって当然と思っておりました。ヒロシマ・ナガサキについてはまったく無知で、でも自分は何でも知っているぞというような振る舞いをしていました。なので、政治については関心がありましたけれども、どちらかというとまったく平和運動と縁のない発想を持っていたと思います。
そのように政治に関心を寄せていた一方で、普通に大学生活を送っていたのもまた事実で、大学生活を楽しく過ごせればいいなと思い、学生委員にもなりました。楽しく過ごすといっても、単にエンジョイするということだけでなく、インタレスティングというのでしょうか、様々なことに興味・関心を持つという、充実したという意味での楽しさもあります。
の二つを兼ね備え、みんなでわいわいやりながらいろいろな企画を立てたり楽しんだりするのが学生だと思っていましたから、先輩に誘われて学生委員会に入ったというところです。そして、入ってから、少しずつ自分が変わっていったという感じです。

そういう意味でいうと、今の私たち学生委員と割と近い雰囲気だったという感じでしょうか。

多分、運動の根本は変わっていないでしょうから、それに共感し、活動していたことはそんなに変わらないでしょうね。

Peace Now!の参加
〜いろいろなことを学ぶ中でだんだん自分の考えが深まっていったのでしょう〜

あまり平和には関心がなかったというか、そこまで熱い想いがなかった中で、どういうきっかけで“Peace Now!”に参加を決められたのですか。

平たく言うと、観光気分ですね。広島へ行って美味しいものを食べてこようかなとか。また、広島に縁があり、叔母やいとこが住んでいたので、ちょうどいい機会だなと。だから、動機付けってあまりないんですよね。いずれにしても本当に遊び感覚で行ったと言ってもいいと思います。

参加された当時の“Peace Now!”は、どういう内容だったのですか?

今とあまり変わっていないと思います。昨年の活動報告を拝見したしましたが、変わったところは、一般参加者にインタビューをされているところだと思います。当時はこういうインタビューはしておらず、6日の式典に出席して終わるという感じでした。そのあとは特段何かがあるわけではなくて、自由行動みたいな感じでした。
それまでの流れは、フィールドワークがあったり、被爆者のお話があったり、平和記念資料館に行ったり、平和公園などを見たりという内容で、ほとんど変わっていないと言っていいと思います。

私たち実行委員は、「いろんな意見や見方がある中であなたはどのように考える?」というような内容で作りこんでいるのですが、当時もそういった内容でしたか。

どうだろうな。個々に意見は違うので、一本化できるわけがないですよね。だから、その中でもどれだけコンセンサスが得られるかという議論はすごくしていました。
私は当時、核なんてあって当たり前じゃないか、日本はアメリカの核の傘の中で生きているじゃないか、核抑止という発想は正しいんじゃないか、と当然のごとく思っていましたし、話している中でも同じように思っている人は少なからずいました。
一方で、そうじゃないでしょ、という人たちもいましたので、激しく議論はしていました。夜、企画されているプログラムが終わった後もそういう話をしていましたし、あまりにも強い言い方をするので、泣き出してしまった子もいました。そのくらい、「核兵器はありやなしや」という議論はすごくやっていたという記憶があります。私もがんがん言っていたと思います。

参加される組合員の人も、核はいるかいらないかという意見をちゃんと持っていたのですか。

すでに運動されている方もいらっしゃったでしょうし、なんとなく来たという方もいらっしゃったでしょうが、その中でも意見は持っている方は多かったですね。
流れの中で何か意見を言わなくてはならなくて、思うままに言ったというのもあるのかもしれませんが、被爆者から話を聞くとか平和記念資料館を見るとかして、いろいろなことを学ぶ中でだんだん自分の考えが深まっていったのでしょうね。そうしていく中で、どんどん議論が白熱していったのだと思います。いろいろな方がいらっしゃったと記憶しております。

考えの変化
〜もし自分がそこにいたら〜

今日は当時のノートを持ってきたのですよ。これは私の原点になることですから。
(Peace Now!参加当時のページを見て)ずっと議論なんですよ。だから、やはり、最初自分の意見がなかった人もいろいろなことを学んでちゃんと意見を言えるようになってきたのかもしれませんね。その中で私は考え方が変わっていったのです。

議論をする中で、具体的にどのように変わったのですか。

今ご存命か分からないのですが、ある被爆者の方が私たちのためにお話をしてくださった内容が、非常に心に刺さったのです。その方は爆心地から1.8キロのところで被爆しており、被爆後の生活の中で、差別があったり、自分の希望や夢があってもなかなか叶わなかったり、国のサポートもないという中で生きてきたということがすごく辛かった、というお話でした。その一つ一つを頭に思い浮かべると、もし自分がそこにいたら同じことになっているんだ、そういうことはあってはいけないんじゃないかと、自分の中では思うようになりました。核兵器がなくならない限りこういう危険性は持ち続けるんだと思えるようになったのだと思います。
その方のお話を聞いて、非常に心を打たれて、それまでの考え方じゃいけないなと。そういう経験を持って生きてきた方の前で「核は必要ですよね」なんて、その方の人生を否定することにもなりかねませんし、あってはならないのだと。それで議論をしていく中で、さらにその想いが強くなっていったということだと思います。

今年度のPeace Now!Hiroshimaでは平和記念式典にも行き、平和記念資料館も見に行きましたけれども、実際に核がいるかどうかという議論には至らず、それを経て、自分は平和に向けて何ができるだろうかという、核というよりはもっと平和について考えるという内容になっていました。当時はもっと核がいるかどうかの議論をしていたんですね。

そうですね、もちろん平和って何なんだろうという議論もしていたと思いますが、どちらかというと核がいるのかいらないのかという議論になったという記憶がありますね。その頃、時代背景は…、僕が行ったのは94年なのですが、確か日米ガイドライン見直しが大きな政治テーマである時だったかもしれませんね。だから、核の傘だとか、核武装だとか、核抑止などの話が新聞紙上に出ていました。いろいろ揺らいでいた時代で、自民党政権ではなくなり、55年体制が終わったときだったと思います。野党で細川連立内閣ができたときで、いろいろな議論をしていた時代でした。その上で、じゃあどういう社会がいいのだろうか、どういう状態が平和なのだろうかという話をしていて、じゃあ、そこに近づくために私たちは何ができるのだろうかという議論もしていたような気がします。
最初からどんな活動ができるかという話はしていなかったような気がしますね。多分、難しいんじゃないですかね。実感を伴わないで話をしているところがあるから、まずはちゃんと知るべき事実を知っていただいて、そこから思ったことについて話し合うことをしていく。そういう道筋があったような気がしています。

活動で大切にしていること
〜自分に置き換えて考えることですね。それを考えてもらえるような活動をするようにしています。〜

私は“Peace Now!”に参加したのは長崎が初めてでした。その時も全然知識がなくて、どういうふうに関わったらいいのか、議論そのものにまず意見が持てないなというふうに最初思っていたのですけれども、やはり現地に行って自分が何か感じるのはすごく影響が大きいなと思っています。
今も印象に残っているのは、式典のときに何の音もない中で1分間黙とうをするということ。蝉の鳴き声と、じりじりとすごく天気が良いときで、このときに爆撃機が来る音がして、〝それ〟が落ちてきて、気付かないうちに一気にそういうことが起こったということを想像すると、核の問題が自分にものすごく迫ってくるというか、それがあってやっと議論に少し足を踏み込めたと記憶しています。

まったくその通りで、自分の普段の暮らしの中でどう位置づけるかとか、もし自分がそこにいたらどうなっていただろうかとか考えることがすごく大事ですよね。私も被爆体験伝承講話や、ヒロシマピースボランティアをしていますが、どちらにしてもそうなのです。被爆者は今も大変な思いをして生きているのですよ。今も終わっていないのですよ。だから、皆さんがここにいたらどう思いますか、ちょっと考えてみましょうというふうに、自分に置き換えて考えてもらうようにしています。また、それを考えてもらえるような話をするようにしています。それはすごく大事だと思います。そうしないと、“Peace Now!”のような場所では特に、議論は深まっていかないと思います。

被爆体験伝承講話:被爆者の体験を後世に語り継ぐために広島市が行っている事業で、現在50名の方が伝承者として認定されている。

ヒロシマピースボランティア:広島平和記念資料館や平和公園をガイドする資料館直轄のグループ。

社会人になっても平和活動を続ける理由
〜被爆者の方と約束〜

“Peace Now!”に参加された後の活動を伺えたらと思うのですが、“Peace Now!”に学生のときに参加されて、その後すぐ、ご自身としてどういうふうに感じられ、どのように動かれたのでしょうか。

94年、私が関わっていた90年代半ば頃は、明治学院で生協運動が盛り上がっていた時期だと思います。多岐にわたって運動し、平和運動についても非常に旺盛に取り組んでいた時代でした。先輩たちも毎年広島に来て、後進の指導に当たっていました。
指導というとちょっとおこがましいのですが、“Peace Now!”というのはどうしても限界があります。行けるところも限りがありますし、時間的にも制約があるので、終了後に必ず後泊というのをやっていました。明治学院の参加者が残り、例えば行けなかったところを見に行くのが主ですけれども、議論をさらに深くしていきました。昼間は平和公園の外のフィールドワークをやったり、夜はみんなで議論する機会をつくりました。
広島は毎年、長崎は3年のときに行きました。なかなか1年を通した活動として続かないところが課題ではありましたけれども、その時期になると下級生を連れて一緒に行って、またさらに自分なりの意見を考えられたり、また新たな発見をしたり。そういうことをして4年間過ごしました。

普通ですとそこで終わるのが多いと思いますが、私は被爆者の方と約束をしていました。最初にお話を伺った被爆者の方が最後に「被爆者一人ひとりが聴衆に話をするのはなぜだと思いますか?」と問いかけられました。私は分からず、黙っていました。そうしたら「皆さんに私たちの経験を語り継いでいってほしい。語り継げないのだとしても、何でもいいので、何かしら一つでもいいから、感じたことを伝えていってほしい」というお願いをされました。私は「分かりました。少しでもやれることをやってみます」というふうにその方にお約束をしました。
たまたま来ていただいた被爆者の方との約束ではありましたが、その約束というのはよくよく考えると多くの被爆者の方と約束をしたとことなのだろうと思いました。

社会人になってからも8月6日は必ず広島に行くようになりました。最初は8月6日近辺にしか行っていなくて、やはりなかなか観光気分が抜けませんでした。実際、自分で行くだけですからインプットだけでアウトプットする機会がない、そんなことがずっと続いていました。
私は今、百貨店に勤めておりまして、昨年までそこの労働組合で執行部をやっていました。労働運動には当然平和運動もあります。労働運動ができるのも平和な社会があってこそ。だから、平和運動をやるのです。その中で、運よく広島でセミナーを組む機会を得ました。被爆61年目、前の年がちょうど60年だったものですから、広島で実際に平和セミナーを行いました。その中でセミナーを企画し、ガイドもやりました。
そそれがきっかけになってアウトプットするようになり、広島のいろいろな方とのお付き合いの中で「ヒロシマピースボランティアというガイドがありますよ」と教えていただきました。それはまさに被爆者の方との約束を果たす千載一遇のチャンスだと思って、やってみる決心を固めました。

卒業後の活動
〜私が一番やりたいと思っているものに近かった〜

“ヒロシマピースボランティア”って、皆さん多分ご存じないんじゃないかと思いますが、平和記念資料館と平和公園をガイドすることが役割としてあります。
ただ、ヒロシマピースボランティアというのは、あくまで資料館や平和公園のガイドなので、事実を伝えることがメインです。資料館としての見解を述べることがあっても、自分の思いなどは本来あまり言ってはいけない。逆に想いを言えば、それは資料館のガイドとしてはあまりよろしくないということになるかもしれません。
それでちょっと悩んでいたときに、今度は被爆体験伝承者養成事業ということを広島市が始めました。まさに被爆体験伝承者というのは被爆者の想いを伝えるものです。といっても事実も伝えなくてはならない。事実を知らない方には想いを伝えてもなかなか伝わらないというところがあります。この両方を伝える活動は、私が一番やりたいと思っているものに近かったので、これはぜひチャレンジしようということで、3年間研修を積んで、この4月から活動を実際に始めました。

すごいですね。“Peace Now!”に参加した後の参加者それぞれが、自分たちはどんなふうに立ち回っていったらいいのか、どんなふうに考えてどう行動したらいいのか、と悩んでいる中で、社会人になってからそういう展望の描き方というか、そういう展開の仕方があるということを全然知らなかったし、すごく新鮮に受け止めています。 ところで、お仕事をされながらというところでやられていたと思うのですけれども…。

そうですね、仕事をしながらでしたね。労働組合の仕事だけをしていた時でしたので、比較的自分の動きに合わせて仕事を進められ、こういうことをやりやすかった時期だったかもしれません。 一番大変だった時には職制に戻って、組合の副委員長をやっていて、ピースボランティアもやっていて、という状況でした。休みが月2回ぐらいしかありません。ピースボランティアを始めて6年経ち、7年目に入りましたが、ピースボランティアって結構規則が厳しくて、月2回必ず広島に行かなくてはならないのです。

それだけでも大変ですよね。

最初、資料館の館長始め啓発課の人たちとか、一緒に勉強した仲間にもすごく心配されました。最後は実地研修などがあり、曜日ごとにグループに分かれているのですが、そのグループの人たちからも「大丈夫なの?」と聞かれ、「それを覚悟の上でやっています」と言いました。言ったからには、必ず月2回行こうと思いずっと行っていました。 そうやって頑張っていたお陰で、皆さんにも認めていただけて、更に活動が広がってきたのではないだろうかと思います。

ピースボランティアや伝承講話でのエピソード
〜すごく大切な人に出会えました〜

実際に活動されている中でのエピソードを教えていただけますか。

そうですね、2つお話します。 一つは、私が〝広島の父〟と呼んでいる人の話です。私がピースボランティアをやろうと思って研修に参加したときに、市民として参加していた方とコミュニケーションをちょっと図りました。お互い名前と顔ぐらいしか知らない程度のときに、たまたま私がちょっと早く来てしまったのでお茶を飲んでいたら、その人が座ってきて、「あなた、東京から来ている方ですね」と話しかけてくれたのです。
そこからのご縁で、広島へ行くといつも食事したりお酒を飲んだりするようになって、一緒にいろいろな勉強会に行ったりするようになりました。

その方がすごいのは、『中国新聞』の半月分の新聞を切り抜いて私に送ってくれるのです。『中国新聞』には広島のいろいろなことが載っていますので、私はそれで情報を知ることができています。広島へ行くと、いろいろなかたちでケアをしてくれる。すごく大切な人に出会えました。

もう一つは、伝承者としての活動を始めてから、被爆体験の伝承をやっているということで東京新聞の取材を受け、夕刊の一面に記事が載りました。それを見た読者の方が、東京新聞にはがきを送ってきてくださって、ぜひ私にプレゼントしたいものがあるとおっしゃったのです。関東の方で、平和運動を独自にされている方です。その方がガリ版で印刷して発行した『広島通信』というのをまとめた冊子を送りたいのでぜひ読んでほしいと言われ、読みましたら、当時平和運動を一生懸命にやっていたときのことが頭に浮かぶようなすごくいい資料で、とてもいいものをいただいたなあと思っています。
そのあと、ちょっと贈り物をしたらお手紙が来て、「すごく良い方と出会えました」と書いていただいて。自分の想いが少しでも伝わったのかなと、すごく良かったなと思いました。

やっぱり活動されている中で、節目節目のところで出会われて、接点があって、いろいろご自身でも学ばれて、感じられて、ということですかね。

そうですね、やっぱり人から学ぶことがすごく多いです。

伝承講話をやっていてすごく感じるのですが、被爆者の人たちからいろいろな話を教えていただかなければいけないのです。でも、それって、質問してすぐに答えがくるのならいいのですが、やはり被爆者は思い出したくないのですよね。私たちだって、嫌な事は思い出したくないですよね。でも、嫌なことでも思い出してもらわないと、私たちは伝承できないです。そういうときに何が一番必要かといったら、何だと思います?

その人と近くなって、語り合えるような関係をつくることだと思います。

そうですね、信頼関係をつくることですよね。そのために被爆者に寄り添うこと。「この人に本当に話していいのだろうか」と思わせたらだめなのです。そのためにはやはり、信頼を得るために必死になって寄り添ったり想いをお聞きしたり、それから広島に一生懸命通ったりということをして、信頼を得られたのだと思います。今の活動ができるバックボーンにあるのは、そういう信頼関係だと思います。

学生へのメッセージ
〜動機は何でもいいんです。何をそこで感じるかが大切なので。〜

すごく素敵だなあと思って聞いていました。“Peace Now!”を開催している、さまざまな理由の一つには、よりきちんと社会に目を向けて考えられるような組合員を増やしていけるようにということを掲げています。それを体現されているんだなあというふうに感じました。 ただ、一方で、今の大学生や若い人たちって、なかなか社会の動きや政治に対して関心を持ちにくかったりするので、まずこうした機会に出会えれば、考える機会になり動こうと思えたりするのではないかと思います。参加をした上でもやはりまだ戸惑ってしまうという学生がたくさんいると思うのですが、そういう学生、若者、大学生に対して何かメッセージを頂ければと思います。

事前に頂いた項目の中でそれが一番どう答えたらいいか迷うところなのですよ。やはり、日本人であるならば、1回は日本が歩んできた戦争の歴史を学べる場所にやはり足を運ぶべきだと思うのですよね。でも、その前提としてちゃんと学校で近現代史をやらなければだめですよ。やらないと全然分からないから。学校では大体、明治くらいで終わっちゃいますよね。学びがないので、もともとのバックボーンがないんですよね。だから、それがない中で「広島に行け」、「長崎に行け」と言われてもちょっと難しいのかなと思います。

観光気分でも全然構わないですよ。動機は何でもいいんです。何をそこで感じるかが大切なので。とにかく、一度足を運んでいただきたいなと思います。百聞は一見に如かずなので、行ってもらって、そこで何か感じられたら、感じたことを勇気を持って周りの方たちに少しでもいいので発信してもらえたらいいなあと、それを願っています。

あと、もう一つ、自分の暮らしとの関係でどうなのだろうと考えてほしいですね。そのときそこにいたら、自分はどうなっていただろう。そういうことを考えてもらえたら、すごくうれしいなと思います。

実は私たちはいろいろな危険性の側で暮らしています。自分たちの暮らしがどう変わってしまうのだろうかというふうに、自分の暮らしに置き換えて考えられるといいなあと、ぜひそんなことを実践してもらえたらなと思います。

大学生協も今、様々なことをもっと自分事のように捉えて活動していくことを大切にしたいと思っています。今回頂いたメッセージを広く発信していけたらと思います。

今日はありがとうございました。

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