未来と向き合い平和について考える -大学生協の戦後75年特設サイト-

全国大学生協連 会長
生源寺 眞一先生 ご挨拶

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全国大学生協連 会長理事
生源寺 眞一 先生

戦争が終わって僕等は生まれた
戦争を知らずに僕等は育った

1970年に発売されたヒット曲「戦争を知らない子供たち」の冒頭の歌詞です。当時はフォークソング全盛の時代で、同じ年に大学生となった私は、いまでもこの歌のメロディーを口ずさむことができます。ベテランの教職員の皆さんであれば、杉田二郎や北山修の名前が頭に浮かぶ方もおられるでしょう。けれども、同じ組合員でも若い学生さんは、フォークソングと言われてもピンとこないかもしれませんね。

世代の違いには如何ともしがたいところがあります。しかしながら、戦争を知らずに育ったという点は、大学生協の組合員のほぼ全員に当てはまるでしょう。今年で戦後75年を迎えたわけですが、戦争を知らずに育った最初の世代が、そろそろ現世にお別れを告げる年齢に達しているとみることもできます。少なくとも日本国内においては、人々が戦争に巻き込まれることなく、4分の3世紀が過ぎ去ったわけです。

この事実の重みをしっかり認識する必要があると思います。そのうえで大切なのが、戦争の記憶をしっかりと引き継ぐことであり、悲惨な戦禍を二度と繰り返さない願いを共有することです。簡単なことではありません。戦争を知らずに育った私たちにとって、まずは戦争とは何であったかを知ることから始めなければならないからです。今回の「戦後75年」の特設サイトの企画には、戦争の記憶を継承するアーカイブの導入というねらいが込められています。

こうしてパソコンに原稿を入力している私の手元には、2冊の文庫本があります。ひとつは吉田満の『戦艦大和の最期』です。正確に申しますと、『戦艦大和』と題した書籍のメインの章が「戦艦大和の最期」なのです。著者は戦艦大和に乗り込んだ22歳の学徒動員兵であり、戦闘の記録係も命じられていました。戦艦大和は沖縄への特攻出撃で撃沈されましたが、吉田満は奇跡的に生還を果たした人物だったのです。阿川弘之の解説は「三千近い乗員が世界一の巨艦にたてこもって、戦って戦い抜いて斃れ沈んでいった海空戦のありのままの凄絶な記録」と表現していますが、船内での食べ物のエピソードも綴られるなど、まことにリアルな日誌なのです。文語体のリズミカルな筆の運びも印象的です。

もう1冊は永井隆の『長崎の鐘』です。長崎医科大学の助教授であり、放射線科部長でもあった著者は、1945年8月9日午前11時2分の原子爆弾で自ら被爆しながら、多数の被爆者の治療や再起のために文字どおり献身的に取り組んだのです。放射線医療の専門家であり、かつ、夫人や同僚・友人を失った現場の被災者でもあったことで、冷静な判断と熱い思いを兼ね備えた記述には胸に迫るものがあります。40代になって間もない1951年に逝去された永井博士は自身の著書について、「これは医者の立場から見た、原子爆弾の実相をひろく知らせ、人々に戦争をきらい、平和を守る心を起こさせるために書いたものです」と述べています。

大学生協連会長のメッセージとしては、いささか常軌を逸してしまったようです。言うまでもなく、戦争の記憶を引き継ぐのにふさわしい素材はたくさんあるはずです。今回の特設サイトは、素材を探索するヒントにもなるでしょう。そこをあえて2冊の書物を例示したことには、私なりの理由があります。それは読み終えたときの感想が共通していたことです。その感想とは、「これは若いときに読んでおくべきだった」という思いでした。実は、いずれも60歳を間近に控えた時期に出会ったのです。したがって今回のメッセージは、どちらかと言えば、若い学生組合員の皆さんを念頭に綴らせていただいた次第です。

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