
崖の上から投げて、拾いに行った本
マーニー Profile

(全3巻)
アイン・ランド〈脇坂あゆみ=訳〉/
アトランティス
定価1980~2200円(税込)
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中学時代、私は学校の図書室でアイン・ランド『肩をすくめるアトラス』(
Atlas Shrugged)という本を見つけた。当時は『戦争と平和』や『レ・ミゼラブル』など、分厚い本が読めるのが自慢だった。
『肩をすくめるアトラス』は哲学小説でもあり、恋愛小説でもあり、ミステリーでもあり、SF要素も含んでいた。そして主人公たちがかっこよく、強烈なラブシーンもあったので私はすぐに夢中になった。
作中、アメリカ経済の中枢を担う天才たちはストライキを起こし、社会のために能力を使うのを拒む。その中心にいるのはずば抜けた天才、ジョン・ゴールトだ。途中、彼が著者であるランドの提唱するオブジェクティビズム(客観主義)についてのラジオを流す場面があるが、そのシーンだけで九十頁に及ぶ。正直飛ばしたかったが、『レ・ミゼラブル』のクライマックス直前に挿入されるパリの下水道についての描写を辛抱強く読んだ時のことを思い出し、なんとか読み切った。
この時初めて触れた客観主義が、中学生の私に大きな影響を与えることになる。客観主義とは自己利益と自由競争を重視し、自分自身の幸せを考えるのが道徳的であるとする考えだが、実はその奥に「凡人は天才の従者になるべき」というメッセージも含んでいる。
当時の私は学校で「辞典」というあだ名を付けられ、同級生に敬遠されながらも、「天才だから敬遠されている」という傲慢な考え方をしていた。井戸の中の蛙だった私にとって、客観主義はすこぶる魅力的に思えた。
私の唯一の級友で「百科事典」というあだ名で呼ばれている同級生にランド作の『水源』(
The Fountainhead)を紹介した(『肩をすくめるアトラス』ほどの頁数ではなかったので「分厚い小説チャンピオン」記録を破られる恐れもなかった)。
私たちは二人してランドの影響を受けた。自分たちは間違いなく天才で、将来は国の経済を支配する覇者になると信じた。私たちは分厚い本を膝の上に置き、授業の間こっそり読み、先生に厳しく叱られた。私が今でも「lay lie laid」や「swim swam swum」を使う時に考える時間が必要なのは、ランドのせいだと言えるかもしれない。
それだけ心酔した客観主義を疑問視するようになったのは、本を読み終え、ラブシーンの記憶が薄らぎ始めた頃だ。凡人が天才に従うべきだという考えが罷り通るなら、凡人は見捨てられても仕方ないということになる。
この主義を貫くとなると、私は本棚にある『戦争と平和』をゴミ箱に捨てなければならなくなる。なぜならトルストイはヒューマニズム主義者で、登場人物はみんな普通の人だからだ。『レ・ミゼラブル』も、タイトルだけですでに客観主義に相反している! その他の愛着のある本も半分以上、ゴミ箱行きになりそうだ。
違和感が芽生えた。ランドはそんなに偉い思想家か? トルストイとブロンテとユーゴとセルバンテスより偉いのか。……本を捨てるとすれば、いっそ『肩をすくめるアトラス』から捨てるべきではないか。
近所のちょっとした崖を私は『肩をすくめるアトラス』を片手に登った。崖の上から谷間に建つ自分の家を見下ろした時、小説のワンシーンが頭をよぎった。フランシスコという天才が周りの人間のつまらなさに辟易し、ワイングラスを床に投げつけるシーンだ。
私は『アトラス』を掲げた。そして、フランシスコを真似るかのように本を崖の上から投げ落とした。岩にぶつかる度、ページがはためく。あまりにドラマチックで、自分も小説の主人公になった気分だった。ランドの呪いを、ランドのやり方に則って解くことができたような気もした。
だが、勝利を満喫した後、私は必死で崖を下り、本を拾いに行った。図書館から借りた本になんてことをしたのだろう。ページの溝に入り込んだ砂を何回も本を振って落とした。図書室係に叱られるのではないかと返却するまで気が気じゃなかった。
その後、私は高校と大学で様々な哲学や思想を学んだ。これは世界で一番優れた思想だ、唯一世界を救える政治理念だ、最高の哲学だ、と心酔しそうになる度、必ず自分の本棚を思った。新たな哲学や思想に傾倒することで、また他の本を捨てる羽目にならないかどうか考えてみた。
自分の世界を広げるアイディアに出会えるのが大学のいいところだ。だが気をつけないと、共鳴する思想に呑み込まれてしまう。大事なのは、夥しいアイディアの流れの上に昇り、入り込みすぎず、俯瞰的に見下ろすことだと思う。
大学を卒業する時、自分の主義を決めた。
「バランス」だ。
P r o f i l e
撮影:Cindy McGoon
■略歴(まーにー)
アメリカ・ミネソタ州生まれ。カールトン大学で日本語を学び、南山大学に留学。ウィスコンシン大学で日本文学博士号を取得。2021年、マーニー・ジョレンビー名義で、すべて日本語で書き上げた小説『ばいばい、バッグレディ』(早川書房)でデビュー。ミネソタ大学で日本語講師として教鞭をとりながら、小説の執筆を続けている。他の著書に『こんばんは、太陽の塔』(文藝春秋)、『物理学者の心』(祥伝社)がある。
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