
生協書籍部の午後
岩井圭也 Profile

米原万里/文春文庫
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(上・下)
テリー・イーグルトン/岩波文庫
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私が大学に通っていた当時、大学の生協書籍部では素晴らしい「割引サービス」が導入されていた。利用者には組合員証を兼ねたポイントカードが発行され、たとえば、本を一万円購入すると五百円分の割引券が渡されたのだ。ただし、割引券は生協書籍部でしか使うことができない。
毎回生協で本を買えば、実質五パーセント引きになるということだ。本はどんな書店であっても、原則、割引することができない。にもかかわらず、常に五パーセント引き。これは大きい。
私は割引券につられて、せっせと生協へ通った。たとえば、二限と四限の間にぽっかりと生まれた午後のひととき。本が整然と並んでいる場所に行くだけで、心が落ち着く気がした。図書館も好きだが、流れている気配は全然違う。退屈な午後の生協書籍部でしか感じ取れない空気というものが、たしかにあった。
そして、生協へ行くとたいていは本を買った。毎回、欲しい本が「見つかってしまう」のだ。森見登美彦を買い、伊坂幸太郎を買い、三浦しをんを買った。町田康を買い、舞城王太郎を買い、佐藤友哉を買った。大学生だった私は、駅前の新刊書店よりも、近所のブックオフよりも、生協書籍部で一番本を買っていた。
印象深いのは、米原万里との出会いだ。
ある日、生協で『旅行者の朝食』という文庫を見つけた。どういう本なのかわからないが、とにかく気になるタイトルだ。ビジネスホテルの朝食バイキングが頭に浮かんだが、 カバーイラストには瓶詰めが描かれているし、たぶんそういう「朝食」ではない。裏表紙のあらすじを読んでみると、エッセイ集らしい。とにかく買ってみることにした。繰り返しになるが、五パーセント引きという前提があるため、生協では本を買うハードルが異様に低くなる。
帰宅して読んでみると、これがめっぽう面白い。東海林さだおや原田宗典の軽妙なエッセイの愛読者だった私は、知性と諧謔味がミックスされた『旅行者の朝食』にすっかり魅了された。以後、生協で『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』や『オリガ・モリソヴナの反語法』などの米原作品を買っては読んだ。どれも驚くほど面白かった。
作家になってから異国を舞台とした小説をいくつか書いてきたが、その原点は、あの時読んだ米原作品にある気がする。
イーグルトンの『文学とは何か』という本を買ったこともあった。ハードカバーで四百ページ近くある本だ。純文学への興味が強かったころで、「ここらでいっちょ文学理論でも嗜んでみるか」と思って購入したのだった。しかし買ったはいいものの、見た目の分厚さと内容の難解さに挫折してすぐに読むのをやめた。
せっかく買ったのに読まなかった、という意味では無駄遣いに見えるかもしれない。ただ、私はこの時の挑戦を無駄だとは思わない。途中でやめたとしても、「『文学とは何か』という本を読もうとした」経験は残るからだ。これは重要である。
なぜかと言えば、一度読もうとした経験があれば、再び読むことへのハードルが下がるからだ。
未知のものへ挑戦するのは、億劫である。三十代後半ともなればなおさらだ。乏しい人生経験が、未経験の分野へ飛びこむことを躊躇させる。そもそも、挑戦するための時間も体力も限られている。二十代前半の学生時代のように、暇でもないし元気でもない。
しかし中途半端でも挑戦したことがあれば、話は別だ。少なくとも経験値はゼロではない。本人が忘れていても、身体は経験を覚えている。一度目の挑戦と二度目の挑戦は、長い時を挟んでいたとしても、まったく別物である。
先述の『文学とは何か』以外にも、読もうとして諦めた本はたくさんある。本音を言えば、学生時代は挫折するたびに「こんな難しい本二度と読むか!」と思った。しかし十数年経つと、人間、考えが変わるものである。あの時読めなかった本にもう一度挑戦してみようかな、という気持ちになる。そういう気持ちになること自体、過去の挑戦の賜物だ。
たとえその場では失敗したように思えても、長い時間を経て、失敗から花が咲くこともある。
振り返ってみれば、読書に限らず、私の学生時代は挫折だらけだ。体育会剣道部でせっせと稽古に励んだが、一度もレギュラーになれなかった。研究室に配属されてからは実験に精を出したが、思うような結果は出なかった。だからといって後悔はしていない。何かに挑んだという経験さえあれば、その事実が挑戦への抵抗感をやわらげてくれる。
もしも生協書籍部に割引券配布サービスがなければ、学生時代の読書量はもっと少なかっただろうし、難解な本を読もうとすることもなかったかもしれない。あの生協書籍部での午後こそが、私の挑戦心を育んでくれたのだ。
聞くところによれば、割引券配布サービスはすでに終了しているらしい。しかし割引があろうがなかろうが、生協書籍部が大学生にとって最も身近な書店であることに変わりはない。
もしも、生協で買った本を途中で投げ出した人がいるなら、十数年後の自分にこう伝えよう。
―― 挫折しておいたから、感謝してくれよ!
P r o f i l e
撮影:宇佐美亮
■略歴(いわい・けいや)
小説家。1987年生まれ、大阪府出身。北海道大学大学院農学院修了。2018年、『永遠についての証明』で第9回野性時代フロンティア文学賞を受賞しデビュー。2024年、『われは熊楠』で第171回直木賞候補。その他、『文身』、『最後の鑑定人』シリーズ、『横浜ネイバーズ』シリーズなど著書多数。
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