
かさぶたをめくる
「文学って無力なのかもしれない」
高校の日本史で第二次世界大戦の話を聞く度に思っていた。政治の道具となりゆく戦争文学、言語統制で潰されていった膨大な本、戦争協力を決めた文学者達……。文学者達が心血注いで作ってきた世界が、こんなにもあっけなく戦争一色に染まっていくことが許せなかった。こんな過去を知ったとして、自分には何が出来るのだろうか。幼い正義感から戦争文学は読まなくていいと決めつけて、ずっと避けてきた気がする。そんな私だが、大学で日本近代文学を学ぶ中で、認識が変化してきた。確かに戦時下で文学は、国家のイデオロギーを強化する手段にもなった。しかし本当にそれだけだっただろうか。感情的で幼稚な怒りが固まって出来たかさぶたをめくった先には、何があるのだろうか。戦争を題材とした文学作品を読み、戦争の爪痕の残された場所を巡る中でより深く考えてみたい。これは私のそんな小さな気持ちから始まった、戦争と文学を考えた冬の記録だ。
降り積もる白い悲しみ 川端康成と特攻

桜花の碑
手狭な丘に重厚な石碑が並び、道路を挟めばのどかな田んぼが広がっている。どれほどの人が想像できるのだろうか、この場所では、これから命を奪われる特攻隊員たちが最期の水を飲み交わしていたことを。「人間爆弾」とも呼ばれた、一度乗り込めば生きて帰ることの出来ない兵器「桜花」で飛び立った人もいたことを。遠く雲の切れ間まで離れていく彼らの姿を川端康成は見てきた。海軍報道班員としてこの場所にいた川端だが「特攻隊員を忘れることが出来ない」と語る。基地で彼は、形勢の悪化を目の当たりにするのと同時に、自分を気遣いながらも死を葛藤して飛び立った特攻隊員達の姿を見てきた。「あなたはこんなところへ来てはいけない」「早く帰った方がいい」と声をかける特攻隊員もいたという。彼は特攻隊と過ごした日々を一言も記事を書かなかった代わりに『生命の樹』という小説に残した。愛する男を特攻で失った女性の傷ついた心の在りようと再生を描いたこの作品。読んでいると、胸にしんしんと、白く冷たい悲しみが積もっていく。「今年の春もやはり、春雨のやわらかく煙る日、春霞ののどかにたなびく日は一度もなかった。」という一文から始まる物語。戦争の悲惨さ以上に、戦争によって失った、何にも変えることの出来ないものの喪失とただひたすらに向き合うような作品だ。作中全体に漂う、行き場を無くした喪失感は、残虐な戦争の顔を見た時とは違った意味で心にのしかかってくるものがある。自分と交流を持った若者が強引に覚悟を定め、空へ飛び立った姿を嫌になるほど見てきただろう川端。彼らの生活を知ったからこその弔いの念が言葉の節々に見受けられる。
人の人生から 『雲の墓標』を読む
雲こそわが墓標 落暉よ碑銘を飾れ

雲の墓標碑
石碑は重々しく立つ、『雲の墓標』の一節を高々と掲げながら。一人の特攻隊員の手記として展開されるこの作品。軍に従事しながらも淡い恋や友情、死への不安が一人の青年の言葉として綴られるからこその重みがある。
阿川弘之の文学碑周辺には、特攻での死者や身元不明死者を弔う慰霊碑が残されていた。何百名もの名前が刻まれた碑を眺めていると、小川洋子さんが『雲と墓標』の感想で、「大きな歴史を、歴史の上から理解するのには無理がある。戦争で人が死ぬことの意味を、ひとりの人間から感じるためには、やはり小説が必要」と話していたことを思い出す。慰霊碑に刻まれた何百人もの命、近くで弔われていた無数の身元不明戦死者。彼らがそれぞれどういった生き方をしてきたかは分からない。ただ、自分達に与えられた今を全うしながらも、私たちが今当たり前に手にしている幸せを希い、いつか為す死にどうにもならない不安を抱いていただろう。周囲に展示されていた、海から引き揚げられた特攻機のプロペラの冷たさを思い出す。一人の人間として尊重されるべき人生があったはずの彼らは最期に一体何を考えていたのだろうか。
蠢く怒り 里見弴と戦争

川内まごころ文学館内装
鹿児島ゆかりの文学者には、戦争で子を失った人も多い。川内出身の父を持つ里見弴もその一人だ。四男一女に恵まれた里見だが、男子全員が出征し、長男は戦死している。一時帰宅した長男を描いた作品の『向日葵』には、再び徴兵される息子を引き留めきれずに葛藤する描写がある。「向日葵のやうに、おのづと明るい方へ顔の向く人間になりたいではないか。」と息子の手紙に書いた里見。ここには戦争の影に侵食されゆく毎日だが、息子は何にも染まることなくただ生きていて欲しいと祈る気持ちが見えるような気もする。特権的地位にいたからこそのしたたかさのある戦争への抵抗。戦時下の里見の作品を概観すると、こう言える気がする。西園寺公望の秘書を幼なじみに持ち、開戦までの状況を整理した資料を校訂する機会もあった彼だが、戦時中も密かに戦争に反抗する姿勢を見せた作品を描いている。例えば『かね』。吃音があり人嫌いな長吉が奉公先で横領を繰り返しながらも一度もバレずに、天命を全うするこの作品。一見戦争とは関係のない話に見えるが、他者と馴染むことなく個人として往来した主人公姿には、国家に統一されない一個人が表現されているとの指摘もある。軍部に近い立場にいたからこその怒りが物語の裏に渦巻いているようにも見える。
時を超えて託されたものを読み解く意味
時を超えて私たちには託されたものがある、これは私が、戦争と文学を考える旅全体を通して感じたことだ。彼らの文学作品は、何十年もの時を超えて、私たちに訴えかけてくる。行き場のない悲しみが降り積もる中で塞がっていく心、どんな状況下であっても誰もが持っている自分の生活の礎、許したくない想い。文学は大きすぎる力を前にして無力かもしれない。大きな声や正しさで凝り固めた思想に人は容易に転がされていく生き物だから。けれども同時に文学には無力感を乗り越えるだけの力も存在している。混沌の時代に文学者達が必死で書き残してきたものを今読み解くこと。この行為を通してしか考えられない文学の力は存在するのではないだろうか。
執筆者紹介

伊瀬知美央(いせち・みお)
近影は鹿児島でお気に入りの古書店、「古書リゼット」前で撮影しました。戦争にまつわる遺跡の多い地元の鹿児島で、文学を通し戦争を考えた冬でした。記事を通して鹿児島と、戦争と文学のつながりを考えるきっかけになればと思います。
*「気になる!○○」コーナーでは、学生が関心を持っている事柄を取り上げていきます。