あの頃の本たち
「灯台の光のような1冊」 藤岡陽子

あの頃の本たち「灯台の光のような1冊」 藤岡陽子

 

灯台の光のような1冊

藤岡陽子 Profile

新装版 青が散る 上

新装版 青が散る 下
※書影は2007年発売の文庫新装版。

購入はこちら >
 私は高校3年生の1年間、家出をしていた。といってもふらふらと行方をくらますような家出ではなく、通っていた高校から徒歩5分の古家に下宿をしていたのだ。
 家出をした理由は、家にいたくなかったから。当時私の家は父と母の仲が悪く、毎日のように喧嘩が繰り広げられていた。両親は後に離婚するのだけれど、そこに至るまでの時間は家族を傷つけるだけのものだった。
「家を出たい。ここにいたら死んでしまう」
 そう懇願して私は一人暮らしを許してもらい、月8000円の下宿代と生活費の仕送りを受けた。下宿先の部屋は六畳の和室で、キッチン、トイレ、風呂は共同。住人は私ともう一人の女子高生以外は、近所の美大に通う大学生のお姉さんたちだった。
 この六畳の部屋で、私は読書しかしなかった。
 スマホもパソコンもない37年前の話。テレビやラジオを楽しむ以外の娯楽といえば本やマンガを読むことだった。当時の友達に読書家がいて、彼女が貸してくれる森茉莉さん、栗本薫さんの小説や、萩尾望都さんのマンガを読み続けていた。自分が生きる場所とは違う世界へ連れていってくれる物語を、友達は好んでいたのだ。
 そんな私に、ある日、また別の友達が、
「今日うちにご飯食べにきいひん?」
 と声をかけてくれた。
 メニューは忘れてしまったのだが、友達のお母さんが作ってくれた晩ご飯が驚くほど美味しかったのを憶えている。
 友達のお母さんは、ご飯を食べさせてくれた後、私に一冊の本を貸してくれた。それが宮本輝作品との出会いになった。
「陽子ちゃん、この本読んでみて。おもしろいよ」
 いまから思えば、友達のお母さんは、私の家庭の事情をなんとなくわかっていたのだろう。なぜなら一人暮らしをしていた同級生の中で、通学圏内に自宅があるのは私だけだったからだ。表面的には普通にしていたつもりだったけれど、周りの人は私の鬱屈に気づいていたのかもしれない、と大人になってから思うようになった。
 友達のお母さんが貸してくれたのは、宮本輝先生の『青が散る』という物語だった。主人公は平凡な男子大学生で、たいして入りたくもなかった大学に入学してからの4年間を描いたものだった。主人公が大化けして大成功するわけでもなければ、大事件やどんでん返しがあるわけでもないこの物語に、私は心を激しく揺すぶられた。なぜなら主人公が抱えている苦悩がまるで自分のことのように感じられたからだ。主人公に自分自身を重ねて小説を読んだ体験は初めてだった。
 友達のお母さんは、それからも次々に宮本作品を貸してくれた。川三部作といわれる『泥の河』、『螢川』、『道頓堀川』。夫に先立たれ、虚無を抱えて生きる女性が主人公の『幻の光』。障がいを持つ子どもを育てながら別れた夫と書簡のやりとりする『錦繍』……。宮本作品の登場人物たちはどこにでもいるような普通の人で、彼らが浮いたり沈んだりしながら人生という海を渡っていく様が、私に生きる喜びと哀しみを教えてくれた。いまはしんどくても、この先にまたいいことがあるかもしれない。だから生き延びよう―― 。
 18歳の私は本から力をもらい、自分のオールで船を漕げる日を、じっと待つことにしたのだ。
 そして私は無事、大学生になった。
 大学に入るとアルバイトをして本を買った。他の方もこちらのコーナーで書いておられるが、当時は大学生協で本を購入すると割引があった。だからほとんどすべての本を大学生協で購入した。ありがたいことに、店の本棚にないものは取り寄せてもらえた。
 就職先は報知新聞社というスポーツ新聞社だったが、26歳の時に会社を辞めて小説家を目指すことにした。スポーツ紙の記者として数多くの勝敗を目の当たりにしているうちに、白星と黒星、どちらにも輝きがあると気づいたからだった。でも黒星の輝きはスポーツ新聞では書けない。それが書けるのは小説だ。だから小説を書こうと思った。
 先日、宮本輝先生とお会いする機会があった。その時に先生が、
「自分の小説では希望を書くと決めている。それだけはずっと守ってきた」
 と仰っていた。その言葉を聞いて、なぜ18歳の私があれほど宮本作品に夢中になったのかがわかった。当時、自分のいろいろに絶望していた私は、物語に希望を見いだし、その光を懸命につかみとったのだ。
 大学生のみなさんには、ぜひたくさんの本に出会っていただきたい。本は、大きな海を渡る時のお守りになる。灯台の光のように、あなたが目指す場所はこっちだよ、と教えてくれる一冊がきっとあるはずだから。

 
P r o f i l e
■ 藤岡陽子(ふじおか・ようこ)
1971年、京都府生まれ。同志社大学文学部卒業。報知新聞社を経てタンザニア・ダルエスサラーム大学に留学。慈恵看護専門学校卒業。2024年に吉川英治文学新人賞を受賞した『リラの花咲くけものみち』(光文社)のドラマ・シーズン2(NHK)が2026年8月22日から放映される。その他の著書に『春の星を一緒に』(小学館)、『森にあかりが灯るとき』(PHP研究所)、『メイド・イン京都』(朝日文庫)、『きのうのオレンジ』(集英社文庫)、『おしょりん』(ポプラ文庫)、『満天のゴール』(小学館文庫)、『手のひらの音符』(新潮文庫)など多数。最新刊は『青のナースシューズ』(KADOKAWA)。
青のナースシューズ

KADOKAWA/定価1,980円(税込)購入はこちら >

▲記事へ戻る

「あの頃の本たち」記事一覧


ご意見・ご感想はこちらから

*本サイト記事・写真・イラストの無断転載を禁じます。

ページの先頭へ