熊本八雲旅 文学修行に生きた時代を見る 前編
1.八雲熊本散歩のはじまり
9月から連続テレビ小説「ばけばけ」(NHK)の放送が始まった。
小泉セツをモデルにした没落武士の娘、松野トキが主人公のこの物語。
毎朝見ているけれど、良さがじんわりと染みてくるドラマだなと思う。
突如訪れた明治時代。当然、すぐに馴染めるわけもなく。過去と今のギャップに戸惑いながらもなんとか生きていく人々の姿に、めまぐるしく生きる私たちの毎日の輪郭を重ねてしまう、そんな魅力を持つ物語だ。
八雲にとって熊本は、突如訪れた近代に、変わりゆくものの存在を知った場所である。
実は熊本県、八雲の文学や人生を考える上で、重要な土地だ。
西南戦争が終わって何もない状態になったけれど、近代へと走りたがっていたこの場所で、八雲は人の心を見るようになった。
熊本での生活を通して彼の文学、そして思想には深みが増していった。
今回は、一緒に熊本の街を歩き、八雲とセツにとっての熊本を見ていこうと思う。
2.熊本駅 ― 八雲の熊本生活はじまりの場所
ここは、熊本駅。
今から130年ほど前の1891年の11月19日、午後5時36分。
ここで、五高の校長嘉納治五郎に出迎えられて、八雲の熊本生活は幕を開けた。
嘉納治五郎を気に入った八雲は、信頼を寄せた教育者の西田千太郎宛てに1891年11月30日に出した手紙に次のようなことを残している。
「貴方は嘉納氏が大好きになると確信します。同氏は、私が会ったことのある日本の教師と大変違っています。彼の性格は大変同情的で、また非常に率直であり、―意志強固な個性にほとんど特有のものであります。一度彼に会いますと、貴方は何年も前から彼と知己であったかのように思います。」
八雲が勤めることとなった第五高等中学校には、無償で提供される外国人官舎があった。しかし、日本の家に住みたいと申し出を断り、八雲は旧士族の持ち家を自費で借りることを決めた。
3.八雲と家族の思い出の場所 ―小泉八雲熊本旧居と、坪井の第二旧居跡

電車に揺られて約20分。熊本を代表する百貨店、鶴屋百貨店のすぐ近くに旧居はある。
門をくぐり抜けた瞬間、繁華街の喧騒は抜け落ちて、どこか心が引き締まる思いをする。
冷房もないはずなのに、時折風鈴の音が聞こえる館内は涼しい。
なんだか懐かしいな、古い造りの建物を眺めながら思う。
ここで八雲は明治25年11月までの1年間を過ごした。
和食は何でも食べるけれど、糸こんにゃくだけは食べることができなかった八雲。近代化の進んでいた当時の熊本では、肉類やビール、パンといった洋食も豊富に手に入るようになっていた。松江では食べることのできなかった洋食を食べることができるのに、八雲は喜んだらしい。
この家での生活を通して、八雲とセツはたくさんの思い出を作っていた。
引っ越して早々、セツは庭で奇妙なものを見た。(※現存する旧居は現在地に移転しているため、写真の景色とは見ているものは異なります)「お隣さんの、庭に珍しいけだもの mezurashii kedamono がいます」と話したセツ。彼女が見たものとは……。なんとヤギだったのだ。ヤギもガチョウもブタも見たことのなかったセツ。八雲は日本研究家のチェンバレン宛ての手紙に、愉快げにこのエピソードを記している。

庭の風景
他にも、八雲が憤慨して書いた手紙を、八雲の人柄をよく知っていたセツはあえて郵便局に持って行かなかった。後日、感情にまかせて手紙を書いてしまった八雲の前に出したはずの手紙を出して、大喜びされた。おかげで八雲の最初の図書『知られぬ日本の面影』が無事出版されたとか。
微笑ましいエピソードの多さに、「ばけばけ」のオープニングを思い出す。楽しいことばかりではなく、怒濤の時代に揉まれながら生きてきた二人。二人は苦しいこともささやかな嬉しいことも、共に分かち合う中で、毎日を過ごしているだけではこぼれ落ちそうになる記憶一つひとつを、大事に育てていったんだろうな。
「ばけばけ」効果もあり、少し賑やかな旧居内。あたふたとしながら、時には寄り道をして、毎日を作ってきた二人の姿が、浮かんでくるような空間だった。
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八雲旧居内装(奥に八雲が執筆に使っていた机があります)
今はぽつんと石碑だけが建つ坪井の第二旧居跡。
この家で、長男の一雄が生まれた。
この家で過ごしていく中で、夫婦も絆を強めていった。下通の方にあった旧居で、館長さんが語っていたことを思い出す。
「この家でセツさんは、英語の勉強を始めました。28回くらい勉強していたんじゃないかな。カタガナで英語の勉強を始めることで、八雲とよりスムーズにコミュニケーションを図ることができるようになっていったのです」
この言葉を聞いて、『ばけばけ』の第1話を思い出した。二人で向かい合い、怪談話をするところから始まったドラマ。セツの言葉を通して、日本の心に触れた八雲。『怪談』に代表される、八雲の再話文学は、セツとの共作と言ってもよい。セツの支えがあったからこそ、八雲の文学は成立した。熊本でセツが英語を学ぶことで、言葉を媒介とした二人の結びつきは深くなっただろう。
4.教育者としての八雲の断片 ―熊本大学第五高等中学校
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五高記念館外装
八雲のレリーフと五高記念館
繁華街から少し離れた、今では閑散とした住宅街に囲まれた熊本大学。
前身である第五高等中学校で八雲は、英語とラテン語を教えていた。
1週間に27時間の授業を担当と、多忙だった八雲。この場所で八雲は、教育者としての眼差しを開化させていく。
五高時代に八雲が残した言葉はどれも鋭い。今にも通じるような、教育批判を八雲は一貫して行なっている。学校の採用していた英語教本の質、五高の学生の想像力の足りなさ、日本の学校教育の制度全体……。彼は熊本で教鞭を執る中で八雲は、日本の教育全体に対する不安を高めていった。教育に批判的な立場を取るからこそ、彼は学生に愛を持ち、熱心な指導をした。1892年1月22日付けの手紙からは、松江中学校での教え子の大谷正信の英作文を、文法に則り丁寧に添削していることが感じ取れる。

五高の教室を再現した部屋で、椅子に座り、目を閉じてみる。
風で木の葉の揺れる音と、授業時間だからかいつもよりも控えめな大学生達の声が、耳朶で混ざり合う。静かなせいか、ここに来るまでに考えていたいろんなことが、言葉になっては頭に浮かび、消えていく。
もしかすると、あの頃もそうだったのかも。頬杖をつき、考える。八雲は五高の学生達を「日本人の少年時代のとても素直な期間を経験しており、また誠実で無口な大人へと成長しているからばかりではなく、九州気質とでも呼ばれるものをかなりの程度表している」「笑顔も見せず、その落ち着き払った表情の下にどんな感情、感覚や観念が隠されているのだろうか」と「不思議に思ってきた」、「表面に見えるものよりもっと魅力的なもの」を持つと評していた。
