米村でんじろう先生インタビュー

でんじろう先生の大学受験期について

ー米村先生の高校時代の進路選択、大学受験にあたって悩んでおられたことや、志望大学選びの決め手になったことなどはございますか。

僕の場合は、ちょうど高校卒業の後に父親が亡くなり、経済的にもあまり恵まれていなかったので、私学は選択肢にありませんでした。当時は国公立がとても安かったので、行くなら国公立かなと。ところが成績があまりよくなかったこともあり、模擬テストなどを受けると「進路変更した方がいいですよ」というアドバイスをもらいました。理科系が好きだったこともあり、理工系を狙おうかなと。とにかく受け入れてくれる大学があるだろうかと、そういう志望動機でした。割と出来るかなと思っていたけど、やっぱり入試になると難しく、太刀打ちできなかったですね。ということで挫折、当たって砕けろという状況でしたね。

ー先生のプロフィールを拝見すると、3年浪人をされたのですか。

そうですね。浪人一年目に、志望校などは黙って、高校から調査書をもらって、勝手に受けていました。当然無理で、やっぱりねという結果。先に予備校に行けばよかったんだけど、経済的にも厳しかったし、家からだと遠いんですよ。だから自宅浪人をし、参考書を買ってラジオ講座を聴いて、受験勉強できるじゃないかという甘い考えで一年目をやってみたけど、いきなり挫折。全く問題集が続かない、分からない。どう考えていいのか勉強法が分からない。それで模擬テストを受けたら、また「進路変更を望む」みたいになって、もうダメだって思った。

ーC判定みたいな感じですか。

ずーっとそうなんですよ。だけど何も考えずにまた受けて、そしてまた落ちる。それの繰り返し。よくも懲りずに、とは思いますけど。本当は精神的にはかなりきつい状態になっていたとは思うんだけど、まわりが割と過干渉ではなかったので。浪人二年目に、さすがに周りも心配してね。兄や母親なんかが、「少し遠いけど予備校に行ったらいいんじゃないか」「お金のことは何とかする」と言うので、行き始めたんですよ。夏が明けて途中から行き、やっぱりそうかと思っていた通りに、予備校の講義を受けても全然わかんない、ついていけない。そのうち段々予備校まで行かずに近くまで行って帰る日もあった。結局、何ヶ月も続かずに挫折し、また元の宅浪に戻った。その間、親が心配して、「少し働いてみたら」と言って、アルバイトを始めました。でもそこは残業もあるし、とにかく長いし、つらいし、仕事キツイと思って、やっぱりちゃんと大学に入らないとヤバいなと思ったりしていましたね。だからまた身を入れて勉強をやりました。そういう3年間を送りました。最終的には国立の東京学芸大学に受かりました。今までとは志望校を変えて、どこか入れそうなところを選んだら、そこは当時割と入りやすかったんですよ。こういう選択で教育系を選びました。

ーその時点では先生になりたいという思いはありましたか。

全くないですよね。学校が大体そんなに好きじゃないので。中学校の時、理科の先生に嫌われて、3年生の時かな、呼び出されて怒られました。生意気だ、授業もろくに聞かないで失敬な、コノヤローって。僕は「ケッ」と思いましたけどね。あと、美術の先生にも嫌われていた。僕は割と手先が器用だったし、絵を描くのも好きだったから、普通に指導してもらっていればまあまあできたとは思う。でも作品をあまり出さなかったからか、すごく嫌われていて、評価1をつけられました。中学3年生の内申書に1をつけるんだと思ってびっくりしました。いい先生もたくさんいたのですが、反面どの先生にも可愛がられたというわけでもないので、学校にも教師にもそんなに憧れとかあったわけではなく、いろんな先生がいるんだなと思っていた程度でした。