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#02 大城研司 さん

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参加者
大城 研司
(マゴソスクールを支える会)

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参加者
小野 勇太郎
(Peace Now! Hiroshima2020実行委員/下関市立大学経済学部)

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参加者
田島 響
(Peace Now! Hiroshima2020実行委員/岡山大学工学部)

自己紹介

下関市立大学3年の小野勇太郎です。よろしくお願いします。

岡山大学3年の田島響です。よろしくお願いします。

マゴソスクールを支える会の大城(おおき)研司といいます。こちらこそよろしくお願いします。

まず、大城さんの活動を教えていただけますか?

今は、ケニアのスラム街にある学校「マゴソスクール」を支援する活動を中心とした国際協力と、山口県でのフードバンク活動が今の私の大きな2つの軸です。ここに、私が深く関わっている団体名が書かれています(下図)。

国際協力(国際貢献)活動に関わり始めた経緯

どういうきっかけで活動を始めたんですか?

私の本業は麻酔科医なのですが、1987年に研修医を終えて転勤で下関にやってきたときに、友人が『ポーランド子どもの目に映った戦争原画展』という展覧会の準備をしていました。ナチスドイツによる虐殺を目の当たりにした子どもたちの絵の原画展ですが、これを一緒にやりました。子どもにこんな絵を描かすのか、と思うような絵がたくさんありました。

その後、様々な運動に参加していき、1996年、東ティモールの独立運動のころに現地の子どもたちと日本の子どもたちとの絵画交流をすることになりました。このときも非常に心に刺さる絵がたくさん出てきました。1999年の独立直後も様々な事件が起こっていましたが、子どもたちが描いた絵は、希望に満ちたものに変わっていました。しみじみと良かったと思いましたね。

東ティモールの子どもたちの絵の変化

ケニアに関わるようになったのは、ケニア危機のころです。大統領選という政治的な理由から、民族関係なく人々が住んでいたスラムで殺し合いが起こりました。子どもたちもそれを見ていて、そういう争いの絵を描いていました。そういう情報をネット等で見聞きする中で、東ティモールのときに抱いた気持ちと重なる部分があり、何かしたいと思ってアドボカシー活動のようなことを始めました。マゴソスクールには、そういった活動をしている共通の知り合いを経由して巡り合いました。

前にやっていたことがきっかけになって次の行動につながったり、前のところで知ったことが次の活動へつながったり、ということが多い印象を受けます。

そうですね。活動するにあたっても、人と人とのつながりが一番大事だと思います。振り返ってみても、人と人との出会いがいろんな活動に関わるきっかけになっていると思いますね。

きっかけが行動につながっているのがすごいと思いました。情報に触れるだけで流してしまう人も多いと思うんですが、行動に繋げている原動力はどんなところにあるんですか?

キーワードの1つは「理不尽」なのかな…。仕事(麻酔科医)がら、日々、命のクリティカル(危機的)な場面に立ち会います。病や事故など、どうしようもない理由で亡くなっていく方を目の前にしているわけですが、世界にはそうではない、権力や誰かの思惑を背景にいとも簡単に命を奪われ、人として生きる最低限の権利さえ奪われて苦しんでいる人がいます。そこに対して歯がゆさを感じながら少しでもと活動を続けています。

僕は、残念ながら現代の若者の中には「誰かのために」ということにあまり関心がない人が一定数いると思っています。だからこそ大城さんの活動の中に「誰かのために」とか「この現状をどうにかしたい」という想いが強いことは、心に残るものがあります。


大城さん

フードバンク活動を始めた経緯

フードバンク山口の活動はどういった経緯で始められたんですか?

アフリカの事などに関わっていく中で、大学生と一緒に活動をするようになりました。ある日、下関市立大の国際協力サークルの学生(2代目代表)が飲み会の席で「私たちはアフリカの子供たちの給食を寄付するという活動をしているのだから、サークルの飲み会で食べ物を残すことは絶対に許さない!」 と言って啖呵を切ったんですよ。この言葉が大きなきっかけになりました。ちょうどそのころに顔見知りだった人の活動をきっかけにフードバンク山口に出会い、フードバンク活動を始めました。

あとは、こういう活動をしていると「国際協力の活動ばっかりしてなんでお前はもっと身近なことをしないのか」と嫌味を言ってくる人もいます。そんな時に「いや、私は日本の貧困の問題にもこういう形で関わっていますよ」と言いたいなという気持ちもあります(笑)。

よく海外と比較して、日本は食べ物を捨ててしまうと言われます。その一方で日本の国内でも、食べられる人と食べられない人がいますよね。

そうなんです。そういったことに私も次第に気づき始めました。

足元って見落としがちですよね。

日本の子どもの7人に1人が相対的貧困にあります。でも、日本の子どもたちはみんなスマートフォンを持っているし、傍からはなかなかそういうことに気づきにくいんですね。だけど実は食べられていないという子どもたちも多いです。アフリカのスラムの人は、目で見て分かる貧困です。新型コロナウイルスの影響で表に出始めて支えやすくなってきている部分もありますが、日本の場合はわからないからどういう風にすれば支えられるのか、というのが大きな課題です。

新型コロナウイルスの流行の中で見えていなかったことが見えるようになったということもあるんですね。


田島さん

嬉しかったこと ~つながりが広がっていく~

活動をされている中で嬉しかったことや印象的だったことはありますか?

反アパルトヘイト運動に関わっているときにマンデラが解放されたり、東ティモールが独立を勝ち取ったり、教科書に載りそうな場面に関わっているというのはいい経験をしていると思います。その後、いろいろな国の動きがありますが、背景知識を持ったうえでそれを見ることができるのはとても幸せです。うまくいかないと腹が立つこともありますが、ワクワクはしますよね。
活動する中で一番嬉しいのは、多くの人と偶然に出会っていくことだと思います。全然知らない世界の人たちと付き合い始めることができます。そういう人たちからいろいろなことを教えてもらったり、別の方を紹介してもらったり、自分の世界が広がっていくのは私にとっては財産です。そういう意味では、今はSNSで気軽に連絡を取り合えるのでいいですよね。会えなくても構えずに連絡を取れるので。

SNSやインターネットに幼いころから慣れ親しんでいる我々大学生はそういうポテンシャルがあるんですかね。

あるはずですが、一方で、実際に会いにいくという努力はもう少しするべきだと思いますね。もちろん今年(2020年)は無理だったと思いますが、ネットで済んじゃうからこそ、済ましちゃうことも多いかと思います。直接会ったり手紙を書いたり、SNSではないつながり方も大事にして、うまく使っていくことが大事だと思います。私たち世代がSNSを使いきれていないのと逆で、若い人にはそういう直接つながる機会をうまく使いこなしてほしいですね。

デジタル世代だからこそアナログなものを使いこなしたいですね。リアルの良さは考えたいです。

そういうのも大事だと思います。


小野さん

苦労したこと ~次の世代につながらない~

今度は、難しかったことや苦労したことを教えてください。

下関市内に私や私の仲間の活動の拠点になっている施設があるんですが、私より若い人たちがなかなかつながっていきません。私は今年還暦を迎えたので30年以上活動をしているのですが、会場の椅子並べなども含めてずっと下働きをしているイメージですね(笑)。最近はさすがに労わられますが(笑)。私は学生と一緒に活動することはありますが、その学生たちはほとんど山口県から出ていきますし、働きだすと学生のときと同じテンションで活動を続けられません。そうするとどうしてもブランクができてしまいますよね。私が下の世代を育てられなかったというか、引き込めなかったというのは、私にとっては大きな問題だったのかな、と思います。

大城さんが20代だったころと、今の20代とで何か違いは感じますか?

私に関わってくれる学生たちは、私自身がその歳だったころに比べて、はるかにすごいしいろんなことを考えています。辛いのは、それが続かず途絶えてしまうことです。それは、経済的な問題や就職を機に仲間が身近にいなくなってしまうことが原因にあると思います。手が回らずに活動から離れていく、一度離れると戻って来られないですよね。もしかすると、戻ってくる場を私たちが提供できていないのかもしれません。

戦後75年、若者には何ができるだろう?

今年は戦後75年ですが、平和な世界のために私たち若者世代にできることはどんなことがあると思いますか?

「戦争がない」という状態と「平和である」という状態の間にすごく幅がありますよね。私は、日本のこの75年は、確かに戦争はしていないけど、平和であったのかといわれると必ずしもそうではないと思っています。先ほど「理不尽に」というキーワードを出しましたが、自分の中でこの言葉に直面した大きなきっかけがある女性の支援活動との出会いの中にあります。その方のご主人は、自衛隊員だったんですが、その勤務中に事故か何かで亡くなられたんです。その女性の方はプロテスタントのクリスチャンの方だったので自分の宗教の中で見守っていきたかったんですが、その意に反して国が、護国神社に御霊を神として合祀したという事件がありました。当時それに対する裁判をやっていたんです。それを手伝ってほしいと言われたんですが、その時に、信教の自由とともにパートナーや家族を自分の想いの中に大切にとっておきたいという気持ちがあるのに、突然神社に祀られましたとなると、それはおかしな話ですよね。でも結局、裁判はすべて彼女の負けでした。今もそのままです。そういったことを知る中で自分の考えに国家や政治が絡んできたときに、私の想いは権力によって好ましくない立場、いざとなったら潰される立場なのではないかと痛烈に感じるようになりました。簡単につぶされてたまるか! というのが1つの原動力が原動力だったのかもしれません。そういう意味で、私は、日本という国が平和だったとは思えないです。少なくとも1人1人の命に対しては平和を守るような国だったとは思っていません。楯突くやつは排除してしまえ、という風に見えてしまうこともあります。

私たちにできることは、身近な人の気持ちに寄り添ってそれに共感することや、その気持ちを大切にしてあげることなのかなと思いました。

そうですね。そして、そういう気持ちの上で政治を見てほしいと思います。目の前の人をたすけることはもちろんものすごく大切でやり続けないといけないけれど、その人がなぜ苦しいのかの根本を探して解決していくことも大事です。目の前にあることだけを追い続けていたらだんだん疲れてきます。だから、何が原因で、それをどういう風に変えていけばいいのか、理想を掲げながら目の前の活動をやってほしいです。

あなたにとっての平和とは?

このコロナ禍の社会情勢・世界情勢をどのように見ておられますか?

市のいくつかのイベントが中止になり大量の菓子や飲料が余ったのですが、それをフードバンクに寄贈いただいたり、ケニアのスラムでも学校が休校になり給食が途絶え様々な問題が起こっていますが、渡るように尽力してくれたりしている人もたくさんいます。そういう中で感じるのは人の温かさです。苦しんでいる人たちもそれなりに助け合って頑張っているはずです。マイナス面ばかり見るのではなく、そういう温かいところも伝えていきたいと思っています。

少し抽象的ですが、大城さんにとって平和とは?

これ(上図)はケニアのマゴソスクールの子どもが書いた絵です。「私の夢」というタイトルで描かれた絵です。少し前までは、大人が鉈を振り回す絵や戦争中の絵を描いていた子どもたちの絵です。その変化の間には、2008年に受けた暴動のトラウマもあり、貧困な状態を経験したり親を亡くしたり、虐待を受けたり、あるいはストリートチルドレンであった経験を持つ子もいます。マゴソスクールはそういう子たちが集まっている学校です。そういう学校で先生たちは、しっかり勉強をさせるだけではなく、子どもたちと一緒に音楽を楽しんだり絵を描いたり、そして給食をしっかり食べさせながら、そういったトラウマから少しずつ子どもたちを笑顔になるように接していきます。そういうのを見ていると本当に嬉しいですね。苦しい中でも、子どもたちに夢を与えられる世界を残していかないといけないと、私は思っています。

全国の大学生にメッセージ ~経験をシェアしたい~

最後に、全国の大学生にメッセージをお願いします。

私は、先輩に話を聴いたり何かを教えてもらったりすることで自分はいろいろな活動ができるようになってきました。若い人たちに言いたいのは、私みたいな人をどんどん使ってほしいということです。私の経験は自分が死んでしまったら終わってしまいます。だから生きているうちに、私は自分の経験をシェアしていきたいと思っています。実際、自分は年齢的にも体力的にもだんだん新しい事ができなくなっています。個人的には今やっていることは最後までやりたいと思いますが、一方で新しい事をやろうとしている人を応援したいです。あるときは知識、あるときは金銭的に。みなさんもぜひ近くにいる先輩を積極的に利用してほしいと思います。私へはいつでも連絡してきてくださいね。

今日はありがとうございました。

(記録:四方遼祐/全国学生委員)

マゴソスクールを支える会

大城研司(おおきけんじ)

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