津田 大介氏

津田大介さんは、Twitterが日本ではまだ珍しかった2007年にTwitterアカウントを開設。Twitterで発信するイベントの実況中継は、当時画期的なことでした。ソーシャルメディアを利用した新しいジャーナリズムをさまざまな形で先駆的に実践してきた津田さん。社会の欠陥や矛盾を鋭い角度で取り上げて発信することで幅広い活動をされている津田さんに、学生の立場から情報発信の在り方やソーシャルメディアが持つ可能性や危険性、大学生が社会的課題に取り組む意義についてお伺いしました。

インタビュイー

津田 大介つだ だいすけ
プロフィール

聞き手

  • 安井 大幸やすい まさゆき
    全国大学生協連 全国学生委員会全国学生委員長(琉球大学出身)
  • 木原 悠駿 きはら ゆたか
    全国大学生協連 全国学生委員会全国学生委員
    (九州大学出身)

(本文:以下、敬称を省きます)

はじめに――自己紹介

全国大学生協連全国学生委員会で委員長をしております琉球大学4年生の安井正幸です。本日はお忙しい中お時間を取ってくださり、ありがとうございます。

同じく全国大学生協連全国学生委員会で副委員長をしております。今年の3月に九州大学経済学部を卒業いたしました木原悠駿と申します。よろしくお願いいたします。

津田と申します。本業はジャーナリストで、メディア・アクティビストとも言っています。大学卒業後は就職しないで、アルバイトのような形で雑誌のライターからスタートしました。ライターとしてさまざまな雑誌の依頼を受け、99年に自分の会社を作って、そこから小さな会社を経営しながら活動しています。書いていた雑誌は、元々興味関心があったインターネットやIT、パソコン等テクノロジー系の媒体だったのですが、途中から自分の専門分野はインターネットやデジタルテクノロジーが社会をどう変えていくのかということだなと思って、そういう分野をいろいろ取材して本を書いたりしています。そういうことがどんどん広がってきて今に至っているという感じで、ここ10年くらいは大学の教員などもやっています。

津田さんは、社会課題について発信されているのが非常に印象的だと思っています。津田さんのTwitterを拝見すると、アイコンが津田さんと飼猫の“もなか”のイラストになっています。保護猫をトライアルから飼いはじめたと伺いましたが、きっかけは何だったのですか。

コロナは大きかったですね。もともと実家で猫を飼っていて、僕自身も子どもの頃から猫が好きだったので機会があれば飼いたいと思っていたのですが、仕事で日本全国飛び回っていたので、なかなかその機会もありませんでした。それがコロナ禍によって東京でステイホームする生活になり、当分この生活が長く続きそうだと感じたこともあり、今だったら猫を飼えるのではないかと思いました。そのタイミングで、この状況下で保護猫活動をしている人たちが譲渡会を開けなくなり、負担が大きくなっているというニュースを見て、インターネットで保護猫のサイトを見ているときに運命の出会いがあったという感じですかね(笑)。

情報源は、紙3割、ネット3割、残り4割が人

新型コロナウイルス感染拡大の影響で社会は明らかに変革され、もうコロナ以前に戻ることは絶対にないと確信をもっていえるような状態になりつつあります。津田さんが情報発信される中で、コロナ前と現在のwithコロナとで、情報発信の仕方を変えていらっしゃることはありますか。

やっぱり全般的にすごくイライラしている人が多くなったということがあると思いますね。今までだったら思ったことを普通に言えていたのが言えない、本来だったらできることができなくてストレスを発散できないという状況もあると思います。情報社会で報道により他国の状況が入ってくるので、日本と比較してしまう。コロナ関連ではワクチンの接種状況が典型的ですが、どこに住んでいるのかで格差が大きいですよね。東京では中野区や墨田区などが割と早く打てるのだと分かり、政治によって我々の生活が左右されるのだな、格差が大きくなるのだなということをまざまざと突きつけられているという状況がある中、自分の生活の不安や不満を政治も含めたいろいろなものにぶつけてしまう。それが時に人に対するバッシングになったりするので、そういうものも含めてなるべくTwitterの発信などは、何かを強く言い切るというよりは、「です・ます」で言うように最近はしています。

今、「情報社会」と言われましたが、津田さんもラジオ・テレビや、Twitterなどさまざまなソーシャルメディアで情報発信されています。大学生もTwitterやインスタグラムなどの媒体を使うことで情報の海に飲み込まれてしまい、真偽を確かめる以前に、そこから受け取る情報を事実だと思い込み、情報に左右された行動に移っていくということが増えていると感じています。
成年年齢の18歳引き下げもあり、情報発信のあり方、ソーシャルメディアの持つ危険性、可能性については、改めて大学生にきちんと知ってほしいことです。さまざまなメディアを使って情報発信されている津田さんからメディア・リテラシーや、ソーシャルメディアが持つ危険性や可能性として認識しておいたほうがいいことについて教えてください。

大学などで話をすると、「情報源はどうしていますか?」という質問が多いのですよね。ソーシャルメディアは便利で、今我々の生活の中にはなくてはならないものになっています。誰でも手軽に情報発信ができるし、情報が流れる速度も速いので、日本では「速報を知る」という意味では本当に便利です。ただ他方で、流すときに誤情報やデマのようなものでも流れてしまう。単に誤解されただけの誤報が流れる時もありますが、すごく政治的な意図をもって誰かに対して正確ではない……、まぁ半分ぐらい正確で半分くらいは悪意を持って歪められた情報が流れたりするようなことが日常化しているという状況があります。
速さとかテレビや新聞で報じられていない専門家ならではのオルタナティブな別の視点を知るという点においてネットはすごく便利なのですが、それだけではバランスが偏ってしまいます。僕の場合は、新聞や新書など紙からも情報を入れる、そしてその上でネットからの情報を見るようにしています。紙の情報は見ている人が単純に一人だけではないので、情報の確認を何人もの人が細かくやっており、相対的にネットに比べると間違いが少ないということがあります。
世の中には本にもなっていないし、新聞にも載っていないし、ネットにも書かれていない情報、ノウハウがたくさんあります。それをどうやって知るのかというと、多くは自分で体験するとか、人から聞くしかありません。僕らがそれを得るのが取材というわけで、やはり人ですよね。人から直接聞いて、体験から得られる情報、文字になっていない情報をいかに入れるのかということがすごく重要です。僕なりに、「紙とネットと人、この3方向からちゃんと情報を入れるようにしよう」ということを言っています。「その割合はどうなんだ?」と言われることがありますが、割合はどうでもいいことだと思うのです。僕は紙3割、ネット3割、残り4割が人と体験のバランスだと思いますけれど、これはその人によってネット5割、紙3割、人が2割ということでもいいでしょうし、人から5割、ネットは全然見ないから紙4割でもいいと思うのです。大事なのは栄養のバランスみたいなもので、ちゃんとこの3種類を常に情報の入手経路に入れておく。それを意識しておくだけで、自分が接している情報のバランスがとれていくということがあると思うので、それを大学生には常に認識してほしいなと思っています。

自分の情報の入手方法を振り返ってみると、圧倒的にスマートフォンのSNSから得る情報が多いなと思い、紙に触れる機会が少なくなっていることを改めて感じます。今、特に大学生はキャンパスに行けない学生もおり、学生生活から図書館というリソースが切り離されていることもあるので、意識的に自分の周りに本を置いていくということが大事なことなのだと思います。
書籍の出版数は年々増加しているけれども、購入数は減っているという現実があるようですが、今後、紙媒体がなくなるということはないのだろうなと思います。電子書籍に一部は移行していくこともあると思いますが、津田さんはどのようにお考えですか。

これは「知の巨人」と言われている編集者の松岡正剛さんが言われていることですが、紙の本、いわゆるページネーションというもの、見開きの紙を使って本になったものを見ていくと、パッケージとしての本は2000年くらいの歴史があるわけですよ。つまり2000年生き残ったフォーマットとしての強さがあるので、すぐにはなくならないだろうということで、僕もそれには同意です。キンドルとか電子書籍が登場して10年くらい経ちますかね? でも今、紙の本が6〜7割で、電子書籍が3割くらい。電子書籍は年々伸びていってはいますが、シェアでいうと電子が3割くらいになってだいたい落ち着いてきていますね。アメリカの方が先にそういう状況になって、いま日本が数年遅れで同じような状況になってきていているので、意外とそれくらいのバランスで今後は続いていくのではないかなという気はしています。

大学教育においても電子教科書が浸透しつつありますが、なかなか全国的に広まらないという状況もあります。その部分は大学教育の中でも変わらないと思われますか。

大学も、大教室で何百人を前に先生が教科書中心の講義をするやり方では、どれだけ学習効果があるのかと言われてきたわけです。それよりも基本的にテキストを読んで事前に勉強しておく、あるいは動画で知識として入れておく。大学の授業ではむしろインタラクティブに、事前学習で生じた疑問などをディスカッションして、それを定着させていくというアクティブラーニングがアメリカなどでここ数年注目されるようになってきています。そのあたりは、日本の大学でもある程度主流になってくると思うのですよね。
コロナ禍によって日本も大教室での授業をTeamsやzoomあるいはYouTubeで行うようになりました。聞いている側も、聞き逃したところを後からオンデマンドで再生して聞くこともできるので、理解が深まりやすいという利点もあります。むしろ大教室の授業はオンラインあるいはオンデマンドに変わったことによって、テストやレポートの点数が全体的に上がったという報告が多く、デバイスが変わった時にどのように世の中が変わっていくのか、大学の側も常に試されているというところはあるのでしょうね。

情報発信に伴う責任 ~表現と人権~

情報があふれている社会では、誰しもが受信のみならず発信する側にも回ります。大学生やもっと若い層でも誰もが簡単に発信できると思うのですが、そういう時にこういった社会だからこそ気をつけるべきこと、津田さんが気をつけていらっしゃることがあればお聞かせください。

ソーシャルメディアは便利なところもたくさんある一方で、自分の声が意図しないところまで届いて大きくなってしまうという二つの側面がありますよね。例えば、基本的なことになってしまいますが、友達にLINEで言うこと、あるいは居酒屋での飲み会のような閉じた場で友達に言う冗談みたいなものと、Twitterで書くものとは違いますよね。違うものだけど、やはりそれを誤解されると炎上してしまうということが今起きています。だから、Twitterなどで話すことは、実際は目の前の友達に話しているつもりでも自分の声がマイクと巨大なスピーカーによって非常に多くの人に届いているのだということを常に意識しておくべきです。自分の声がどこまで届き得るのかということを考えて発信するのは大事ですよね。
あと、やはり何かしらのネガティブな発信をする時には、それを言われた側の人が検索してすぐに見つけられる時代ですから、本人が見た時に反論してくるかもしれないということを念頭に置いたほうがいい。「だから言うな」という話ではなくて、本人が言い返してきた時にも、ちゃんと自分を貫けるのかと考えると、書かないほうがいいことが見えてくると思います。わかりやすく言えば「あなたがネットに書くことは、学校の校内集会で朝礼台に立って何百人もの目の前でスピーカーを通して、マイクの前で話せることですか?」ということ。あるいは、何かに対して文句を言うのだったら、本人を目の前に同じことが言えるかどうかということ。ネットだけは許されるということはないので、そのことをやはり考えた方がいいと思います。

表現の問題を少し伺えればと思います。コロナ禍で大学生がネットに費やす時間が増え、誰しもが情報発信者になると思います。津田さんは冒頭で「コロナになってから、人がイライラしている」と言われましたが、何かを発信したらすぐ叩かれてしまうというか、今まではつぶやいても何も炎上しなかったものが、すぐに炎上してしまうというような表現の不自由さがあると思うのですが、それは人が変わったからなのか、うっぷんが溜まりやすくなったからそうなってしまったのか。僕自身は表現をどんどん規制されているような印象を受けているのですが、どのようにお考えになりますか。

そもそも全ての表現が自由で許されるわけではありませんよ。今だとオリンピックに絡めていろいろな炎上案件があります。全ての表現は自由ではあるけれど、同時に人には人権というものもあるので、何かの表現が他者の人権を損なうような場合、攻撃しているような場合には、それはその中で調整されます。例えば、ある特定の障がい者だったり、在日コリアンの人だったりとか、そういう人々に対する差別的な言動は別の法律で規制されています。憲法で表現の自由は保障されているけれど、同時に憲法では法の下の平等や幸福の追求権があるので、そうすると権利と権利の衝突が起きるわけですよね。本来はそこを調整するのが法律で、裁判所がこれはOKです、これはダメですというような判断をする。表現の自由というのは、そもそもすべてが完全に自由と認められているものではないということです。
そういう前提がある中で今、政府にとって都合の良くない表現に対して、政府や政治の側やその支持者から攻撃を受けるということがまずあります。でもネット上のバッシングは政治権力――上からの圧力だけではなく、今だとむしろ横とか下からの圧力の方が強いです。表現に対する抑圧は、権力による上からのものだけではなくて、同じ一般国民の人たちからも特定の表現が不愉快だということでバッシングをされたり現象が生まれているということですね。
さらに言うと、もう一つは当事者性の有無みたいなものを言われることがあります。わかりやすい例で言えば、実際にマイノリティの人たちのことですよね。虐げられている人たちからすると、その人たちの表現や文化をそうではない人たちがやると——具体的には映画等でトランスジェンダーの役をそうではない人(シスジェンダー)がやったりすると——批判されたりすることが起きる。アイデンティティ・ポリティクスといわれる政治運動で、マイノリティの人たちの代弁をする人がいるわけですよね。本人たちが自ら言う場合もありますが。これは複雑な問題をはらむので慎重な議論が必要です。
さまざまな表現が自由にできないような環境が生まれてきている状況があります。それがなぜ顕在化したのか。たぶん昔から不快に思っていた人はいたと思うのですが、ソーシャルメディアの影響は大きくて、ソーシャルメディアで声を上げると、それに共感する人がそうだそうだとリツイートしてどんどんその問題が広まっていって、そこで対立が起きてしまう。共感でつながる環境をソーシャルメディアが作ったことによって、ある特定の表現に対する良し悪しという点で衝突が増えているという状況だと思います。それは表現者にとってはつらい時代という言い方もできるかもしれないけれど、僕は必ずしもそれだけではないと捉えていて、そこで衝突が起きた時に説明をして、どこからどこまでが許されるのかということを議論していくしかないのではないかと思っています。そこでの説明がきちんとできる、向き合えるということがこれからの表現者にはすごく重要な要素になってくると思うし、そういう時代になったのではないかなと思います。
アイデンティティ・ポリティクス・・・主に社会で不当な扱いを受けている人種や民族、性的指向、ジェンダー、障がいなどの特定のアイデンティティに基づく集団の利益を代弁して行う政治活動。

つながりすぎた結果、いい意味で言うと、これまでは特定の地域でしか見えなかったことがどこでも見られるようになった。逆に言うと、つながりすぎた結果、誰にも見られないだろうと思って投稿したことが、想像以上に広がって炎上する。発信したことを説明したり議論したりできる、向き合える、自分の言葉に対して責任を持てるということが大事になってくるのだなと思いました。