あの頃の本たち
「『夏の夜の夢』との格闘」北沢陶

「『夏の夜の夢』との格闘」

北沢 陶 Profile


白水社/定価935円(税込)

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 学生時代、英米児童文学を専攻していた。「英米」はともかく、「児童文学」といってもピンと来ないかもしれない。絵本の研究? と訊かれたこともある。もちろん絵本を研究対象にしているひともいる。一方私は主にティーンエイジャー向けの小説を研究していた。そして児童文学を専攻していても、作者は大人だ。作家に影響を与えた文学作品や、文学史上重要な作品を読むこともある。
 その中でも特に印象深いのが、シェイクスピアの『夏の夜の夢』(A Midsummer Nightʼs Dream)だった。
 大学生時代からふらりといろんな講義に顔を出すことが多かった私は、大学院に入っても同じことをしていた。そういう講義は人数が少なく、教員と私の一対一になることがほとんどだった。シェイクスピアを読む講義も、はじめは私ともうひとりいたはずなのが、そのうち私ひとりになり、存分にリクエストを言えるようになったので、児童文学作品ともしばしば関わりのある『夏の夜の夢』を読もうということになった。
 シェイクスピアは16世紀から17世紀にかけて生きた劇作家・詩人であり、『夏の夜の夢』の初演は1590年代ごろとされているから、今の英語とはやや異なる初期近代英語で書かれている。多くの日本語訳が出版されているが、講義では和訳をすることが課題となっていたので、自分で原文を読み解かなければならない。そして私が研究していた作品は二十世紀以降のものが多く、初期近代英語に触れたことはなかった。
 こうして『夏の夜の夢』との格闘が始まった。
 劇の台詞ということもあり、文法が違う。単語が違う。現代英語と同じ単語でも、シェイクスピアの時代では違う意味で使われていたものもある。私は大学院の図書館にこもって、原文と、Oxford English Dictionary(OED)とひたすらにらめっこしていた。
 OEDには現代だけでなく、過去どの時代にどういう意味でその単語が使われていたかも記載されている。「私の知っている意味だと訳が変になるな」と思えば、OEDを参照すればいい。ただ時代による意味の変遷を記している分、巻数が多く、分厚く重い。私が図書館で使っていた版は恐らく20巻あっただろうか。原文に目を通して分からない単語をチェックし、書棚に向かって必要な巻を探し、重い辞書をときには複数巻抱えて机に戻る。この往復に腕が疲れると、なりふり構えなくなってくる。「そういえば頭の上に荷物を載せている人の写真を見たことがある」と思いつき、OEDを頭上に載せ、手で支えながら運ぶようになった。この方法が抱えて運ぶより楽なものだから、私は図書館で「頭の上に辞書を載せて歩く謎の人間」と化した。
 そうして少しずつ読み進めていくうちに、不思議な感覚がわいてきた。最初は意味の掴めなかった文章が、パズルのように組み合わされて形を成していく。文章の意味が理解できたときの、これだ! という達成感は、読み解く苦労の分大きかった。もちろん文が読めたからといって、時代背景や細かな感情の機微などのすべてが分かるわけではない。しかし時代や国を越えて、文の意図するところを探り当てていく感覚は、(経験したことはないが)古代遺跡の遺物を発掘し、割れた破片の土を払い、つなぎ直していく行為に似ていた。
 それだけではない。文の意味が分かると、単語の羅列が登場人物の「台詞」となり、「ことば」となる。登場人物の動き、声の調子がどことなく想像できてくる。
 こういった想像のきっかけになったのは、講義を担当していた教員の発言だった。作中、公爵の結婚のため、職人たちが急ごしらえの劇団で劇を演じる準備をする場面があるのだが、教員は「この台詞を語りながら、みんなに台本を渡してるんだろう」と実際に台本を配るような仕草をしながら言っていた。そのとき初めて、私は目の前にある原文が「難しい文の塊」ではなく、「実際に生きた人間が上演し、生きた人間が観てきた劇の脚本」なのだということに気付かされた。
 教員のその言葉を思い出し、意味が分かった台詞を読むと、登場人物たちが生き生きと頭の中で動き回り、喜び、嘆き、怒り、楽しみが想像できる。文が生命を得た瞬間の喜びは忘れられるものではない。
 数年後、ロンドンに再建されたグローブ座(シェイクスピアに関わりの深い劇場)で幸いにも『夏の夜の夢』を観ることができた。舞台上を駆け回る妖精パック、森の中での恋愛がらみの喜劇を観ながら、私は原文のままで劇が理解できる喜びを噛みしめていた。
 劇の最後、パックは観客に向かい、「もし我ら影法師が、お気に召さずばこのように、お思いになればよいでしょう。今までのことは微睡みの間に、見た夢であったのだと」と言う。しかし私にとって、重いOEDを頭の上に載せて運んだことも、一文の訳に延々と悩んでいたことも、そして意味不明だった文章が意味を成し、命を得、登場人物が動き出したことも、夢ではなく、限りなくリアルな、そして得がたい経験であった。

 
P r o f i l e
■略歴(きたざわ・とう)
大阪府出身。イギリス・ニューカッスル大学大学院英文学・英語研究科修士課程修了。2023年、「をんごく」で第43回横溝正史ミステリ&ホラー大賞〈大賞〉〈読者賞〉〈カクヨム賞〉をトリプル受賞し、デビュー。

■横溝正史ミステリ&ホラー大賞とは
KADOKAWAの新人文学賞として、ともに四半世紀以上の歴史を持つ「横溝正史ミステリ大賞(第38回まで)」と「日本ホラー小説大賞(第25回まで)」。この2つを統合し、ミステリとホラーの2大ジャンルを対象とした、新たな新人文学賞を創設しました。50余年にわたり推理・探偵小説を精力的に執筆し続け、また怪奇・ホラー小説にも親和性が高い横溝正史氏の名を冠し、エンタテインメント性にあふれた、新たなミステリ小説またはホラー小説を募集します。

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