2023年9月に日本語版が刊行された元米国大統領夫人、ミシェル・オバマ著『心に、光を。』(KADOKAWA)について語り合うテーブルトーク会を、出版社KADOKAWAの会議室で開催。翻訳家の山田文さん、刊行に携わった編集者の郡司珠子さんとともに、ミシェル・オバマの人生とことばを、心ゆくまでみんなで語り合いました。
郡司 珠子さん(KADOKAWA編集者)
山田 文さん(翻訳家)
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手賀 梨々子さん(慶應義塾大学卒業生)
高津 咲希さん(千葉大学4年生)
徳岡 柚月さん(京都大学大学院卒業生)
古本 拓輝さん(千葉大学卒業生)
ミシェル・オバマ〈山田 文=訳〉
『心に、光を。
不確実な時代を生き抜く』
KADOKAWA/定価2,640円(税込) 購入はこちら >不安の多い時代を自分らしく生き抜く。試行錯誤を繰り返し、様々な困難を乗り越えてきたミシェルのしなやかな強さと包み込むような優しさを感じる一冊。私たちの背中をそっと押し、一歩踏み出す勇気を与えてくれる。
手賀
この本の日本語版を出版された経緯をまずはお聞かせください。
郡司
ミシェル・オバマ(以後、ミシェル)さんの本は前作の『マイ・ストーリー』(長尾莉紗・柴田さとみ=訳/集英社)を読んでいて、この方のメッセージを日本に伝えていきたいという思いから、今回版権獲得に乗り出しました。
手賀
『マイ・ストーリー』が郡司さんを突き動かしたのですね。
郡司
そうですね。世の中にはいろんなタイプの本がありますが、どういうメッセージを訴えていくかを考えた時に、差別や憎しみを煽ったり、調子のいいことを言ったりするタイプの書籍ではなくて、私は読者が何年も大事にできる本を届けたいと思ったのです。ミシェル自身は偏見やデマと戦って今の位置にいる、楽をして大統領夫人になったわけではないんですね。今までのファーストレディと全く違うタイプのファーストレディでしたので、読まれるべき本だという思いがありました。
高津
では、郡司さんのなかですごく強い思いがある方だったということなのですね。
郡司
そうですね。
手賀
この本を最初に読んだお二人の率直な感想についてもお聞きできたらと思うのですが。
山田
すごく元気になるし励まされる内容ですよね。前作の『マイ・ストーリー』は自伝なので、エピソードを時系列に沿って綴っていく物語性の強い読み物でしたが、この本はその応用編という印象を受けました。人生のエピソードを振り返りながら、私はこんなふうに不安に対処してきたよ、こんなふうに友達やパートナーと付き合ってきたよと、人生の先輩としてそっと助言し、やさしく寄り添ってくれる一冊で。それに、アメリカの社会状況のなかでミシェルが人種差別にどう向き合ってきたのかを頭できちんと捉えて言葉にしている、骨太な本でもあるなと感じました。
郡司
私はとても注意深く考え抜かれて書かれた本だなと感じました。わかりやすい言葉で表面的に人を応援しているわけではありません。弱い立場に置かれ生き悩む人たちに対し、「周辺の誰も傷つけないか」「誰も取り残さないか」ということに配慮をし尽くして書かれている。本人が黒人として疎外感を経験し、常に自分の主観だけでなく、もっと広い視野で物事を捉える訓練をしてきたことが反映されていると思います。
手賀
「共感ができなくても視野を広げるということが大事」ということが、本書の中にも書いてありましたね。
郡司珠子さん
古本
日本語版は、読者に読みやすくなるように工夫されたところはありますか。もともと原書が読みやすい本だったのか、それともやはり翻訳の段階で苦労されたことはあったのでしょうか。
山田
そうですね、読んだときと実際訳し始めてからの印象が必ずしも一致するわけではなくて、読みやすくても訳しにくいことはあります。この本の場合は、比較的読みやすかったのですが、「訳すのは大変だろうな」と感じて、実際その通りでした。多分オーディオで聞いたら分かりやすいんですけど、原書はすごく話し言葉に近い感じで書かれているんですね。それが魅力でもあるのですけれど、難しい部分でもあって。話し言葉も日本語と英語とではリズムが違います。だからニュアンスを残しながら意味もずらさずに訳していくというのは難しいところですね。
郡司
シンプルな単語が難しいですよね。
手賀
例えばどのような単語でしょうか。そのまま載せられているものもありますよね。
山田
invisibilityとか。これは特にキーワードになる言葉で、「目に見えない存在」であると。マイノリティ、例えばアメリカの黒人は、そもそも存在を認識されていない。マジョリティの側が持つステレオタイプを押しつけられて退けられていて、メディアでもあまり取りあげられないからロールモデルになるような人間もいない。「黒人で女性で背が高くて強くて活躍している人」というのをイメージできればそれを目指せるけれども、そういうモデルがないと目指せない。そういった話をまとめてinvisibilityといっていて、今よく議論になるキーワードの一つなんです。ただそれを日本語にどう訳すのかとなった時に悩みました。
郡司
アメリカの読者にはinvisibilityという言葉に一定の共通認識があるのですが、日本の場合はそれがないところから説明しないといけない。すごく難しかったですよね。
山田
そういう場合、カタカナで表記することもありますし、定訳があればそれを使いますし、説明的に訳すこともあります。今回は「目に見えないこと」というように説明的に訳しました。そうなるとやっぱり文の中に埋もれてしまうので、原語を括弧に入れて示しています。
手賀
キーワードの定義とか意味を日本の読者が捉えられていないと、読み方(解釈)も変わってしまいますね。
古本
翻訳書ってよく日本語にない単語の解説は文末に脚注で書かれていることが多いのですが、今回はそれがなくて。これは「ミシェルさんが語りかけているように」と意識されていたのでしょうか。
山田
そうですね。注釈を入れるとそこで途切れてしまうので、おっしゃっる通り、流れを崩さないように、本文中で説明的に訳すことで乗り越えられるところはそうしました。
古本
戻ったりすることなくスムーズに進んでいったので読みやすかったです。
郡司
編集上の工夫で言うと、この本文中に入っている見出しは原書にはないんですね。これは入れたいと本国にお願いし、了解をいただきました。日本の読者には「何がここに書かれているか」と見出し立てをした方が伝わりやすいので入れさせてもらいました。
手賀
本文中の見出し項目があるのは、2度目3度目と読み返す時、ピンポイントでここの部分をもう一回見たいというときにすごく役立ちました。
山田
郡司さんからもう一つ助言をいただいたのが、段落を細かく分けることです。英語はパラグラフライティングなので、あまり頻繁に段落を変えないんですよね。日本語で段落がずっと続くと結構しんどいので、適当なところで改行してくださいと。それも日本語にする際の工夫ですね。
郡司
そうですね。やっぱり翻訳書を扱っていて悩ましいのは、ボリュームです。厚さを見ただけで読者から引かれないよう、なるべく読みやすいように作る意識を常にしています。
高津
そういった読書習慣の違いの上で工夫をされているというのは初めて知りました。面白いですね。
高津
翻訳の仕方でもう一つ気になっているのが、“The Light We Carry”という原書のタイトルを『心に、光を。』と訳した理由です。これは例えば本文全体を読んでから考えているのでしょうか。そのあたりのエピソードをお聞かせいただけますか。
山田
それは、郡司さんのアイデアです。
郡司
山田さんに翻訳作業をお願いしたあと、私は必死にタイトルを考えました。タイトルを考えるのって、本当に大変なんですよ。サブタイトルの「不確実な時代を生き抜く」が先に決まって、これは比較的イメージもしやすいですし、忠実な訳ですけれども、柔らかい言葉ではないので、メインタイトルでもう少し柔らかいイメージを持たせるようにしたかったんですね。あとは短いフレーズでまとめるということ。「光」は絶対必要な語彙ですが、「光を運ぶ」とすると、抽象度が上がってしまう―― 『心に、光を。』でも充分抽象度は高いんですけれども―― 。「自分のマインドセットを変えていく」ことを日本語ではどんな言葉で置き換えられるかなと考えた時に、やっぱり「心」っていう言葉は必要なんだろうなと思いました。次に「心」をひらがなにするか漢字にするか。そして、「点(、)・丸(。)」を入れるかどうか。あとは百本ノック、順列組み合わせで全部書き出してみて、寝かせて、人の意見を聞いて、もう一度見て、という作業を何回か繰り返すんです。自分で「できたな」と思うところにまず辿り着くのが最初のステップ、その後に、できたと思ったものが本当にそれでいいのかを検証するという作業ですね。それを経てから決め込む感じです。決める瞬間には山田さんにも「これは、どうでしょう?」って投げています。
徳岡
ちなみにもう一度検証するというのは、具体的にどのような感じでやられているのでしょうか。
郡司
違う目で見ます。例えば自分の中でイメージラフを作る……、デザインしてみたらどうか見えるか、書店に並べてみたくなるか、データとして文字が羅列されたらどうなるかなどを色々検証してみる感じですね。
徳岡
なるほど。
郡司
検索しやすいか、覚えやすいか。他に同じタイトルの本がないかどうかももちろん、見ます。
山田
点(、)と丸(。)を入れたのは?
郡司
点(、)はないと納まりが悪いんですよ、タイトルとしては。デザイン性も悪い。丸(。)はね、正直ね、すごく悩ましいです。悩ましいけど、ある種の決意、「ここで止まるぞ」という、強さを出すために入れていますかね。
手賀
点があるのも、光の前にちょっと間があって、光というキーワードがすごく際立つようなタイトルだなと感じました。
徳岡
『心に、光を。』というタイトルは、本当に覚えやすいし、すっと入ってくるし、すごく素敵だなと思いました。
山田
郡司さんがタイトルを送ってくださったときに、「編集者さんはすごいな」と思いました。柔らかいメインタイトルと、ちゃんと内容を示してくれるサブタイトルがうまく組み合わされていて。
高津
『心に、光を。』の帯文で気をつかったところ、こだわったところなどはありますか。
郡司
帯が書きやすい本と書きにくい本とがあるんですけれども、これは難しかったですね、本当に。中身を伝えるだけでは足りないところがあるので、同時に潜在的に人が読みたいと思っているテーマであるとか、心に引っかかるキーワードであるとかをどうやって盛り込んでまとめるか、といったことをいつも考えますが、「不安」という言葉が使いにくいなと感じました。
山田
ネガティブな言葉はあまり入れないんですよね。
郡司
不安になった時に、「この人に不安の相談をしたい」と思うほどには、ミシェルは日本の読者から近い存在ではない。でもアメリカの人にとってはちょっとした気持ちの不安を訴えられる相手だと思うんですよね。実際に彼女のサイン会に来た人たちも、みんな自分の不安についてしゃべっています。それくらい距離が近い。不安の多い世界にどうやって向き合うかということを書いた本ですが、本国とは不安の種類も違うので、距離感をどう埋めるかをすごく考えました。
高津
ではミシェルさんに対する読者の感じ方とか読者が求めているようなことをすごく考えながら、ということなんですね。やっぱりいろんな視点が必要なんですね、本の内容を伝えるのだけではなくて。
郡司
そうですね。
手賀
いまの話を聞いていても、結構幅広い層の読者に読んでほしいという思いが込められている本なんですね。
徳岡柚月、高津咲希、手賀梨々子、古本拓輝
手賀
ここからは、ディスカッションをさせていただきたいと思います。『心に、光を。』の「共感したこと、印象的な部分(ことば)」についてお話したいです。
古本
271頁の最後から二段落目で、「人とのちがいは宝物であり道具でもある」という言葉は、話全体の中でも重なる部分かなと思っていました。弱みを強みに変えているのが非常にいいなと思って。みんな多分、自分の弱いところをすごく気にしてそれを見ないようにしていると思うんですけれども、それがむしろ武器になっていく。「弱みを弱みのままにしない」というフレーズは、自分もネガティブになったとき、読み返して勇気をもらいたいなと思って、心に留めておきたいなと思いました。
手賀
私も古本さんと通じるんですけど、人との違いをなくそうとするのではなくて、その違いが編み合わされるところが印象的で、共感は溝を埋めるけれど完全にはなくならないことを認めたうえで、大きな視野で捉えることで一体感を持っていくという考え方が、噓がないというか、やっぱり自分と違う人のことを受け容れるということは簡単にはできないとは思うんですけれど、その言葉がすごい説得力がありました。
高津
私は【わたしのなかのモンスター、「不安」】で、不安の克服法として、大きな不安と出会った時に、
あらこんにちは。また会ったね。
来てくれてありがとう。とても警戒させてくれて。
でもわかってる。
わたしにとって、あなたはモンスターじゃないって
(91頁より)
というところがすごく印象に残っていて。不安になりたいと思う人はいないけれど、やはり不安と向き合っていかなければならないし、別に不安というもの自体が悪いものでもない。むしろうまく緊張感を与えてくれたり、より良い解決方法にするために必要な物だったりするので、「モンスターじゃない」というところに「なるほどな」と思いました。不安になった瞬間はすごく嫌だと思うしちょっと取り乱してしまったり態度に出てしまったりすることもあるかもしれないけれども、むしろそのようなときこそ自分に何かを気づかせてくれたり自分を客観的に見つめてこの先どうしたらいいのかなと考えるチャンスをくれている。と捉えるということがとても刺さったので、この最後のフレーズがすごくいいです。
徳岡
私が特に共感したのは、【警戒しすぎずガードを下げる】のところです。私自身は家族や友人に対してもわりと心のカードを上げているところがあって、そのままではいけないと思い演劇とかいろいろなことに挑戦してきたのですが、それでも難しいと感じていました。でもこの本を読んで、ミシェルさんという本当に輝いているすごい人でも努力をして心のカードを下げていらっしゃるんだなと知って、私も怖がらずにもっと心をさらけ出せるようになりたいなとすごく思いました。
山田
離れたところから見ると、おっしゃるようにまさにキラキラしていて全然別の世界の人みたいですけど、実は普通の人なんですよね。
徳岡
この本を読んでいると本当に「近いものがあるのでは?」と感じて気持ちが救われました。
郡司
前半は特に共感を抱くことが多いですよね。私は【強力な友人関係は強力な意志がつくる】というところ。友人関係だけじゃなくて、この人と関係性を維持したいと強い意志を持つことが、自分の生きていく世界を変えていくということに、共感しました。
手賀
この中で書かれているキッチン・テーブルのようにすぐ駆けつけてくれるような友達の関係性を読んでいると、私はコロナ禍ということもあってSNSではつながっている友人が多くいるけど、SNSではない素の姿をお互いちゃんと知っているかということを結構考えさせられる部分でした。そういう友達ってどれくらい、いるのかなって。
山田
彼女も同じなんだとほっとする部分もあり、でもやっぱりこうはなれないなと思う部分もありますよね。さきほど徳岡さんがおっしゃっていたのと同じで、私も人に心を開きにくいので、足の匂いまで知っている友達はなかなかつくれません。ただ、全体を通して言うと、皆さんおっしゃっていた通り、違いや不安といったネガティブに捉えられがちなものにも二面性があって、かならずしも悪いことばかりじゃないし、それを活かしてもっと自分らしく生きる道もあるんだよと示してくれるのは、読んでいて励まされますよね。しかもミシェル自身が逆境から出発している。黒人であり女性であり貧困地区で暮らしてきた。しかもお父さんには障がいがあって。それでも「自分はできる」と信じて、やることをやっていけば、世界は違う場所になるという可能性を見せてくれる。とても勇気づけられます。それに一つひとつのエピソードも具体的で、例えば子育てやパートナーとの関係で悩んでいる人が読んだら励まされるでしょうし、これから社会に出る人が読んだらサーシャとマリアの二人の暮らしの話とかも響くところがありますよね。人生のどの段階にいても「こういう見方があるんだ」と感じられる。ちゃんと地に足をつけて生きていけるんだとお手本を示してくれる。それも勇気づけられます。
古本
サーシャとマリアのルームシェアの話はいいですね。マリアの掃除の場面を目にしたミシェルさんの母親としてのまなざしがとてもあたたかくて、もしかしたら自分もそうやって母に見られているのかもしれないなと改めて感じました。
山田
愛情を注ぎつつ、ちゃんと放置しておく、そのバランスがすごくいいですよね。過干渉でもなくほったらかしでもなく、ちゃんと「愛しているよ」という気持ちを伝えながらも、敢えて踏み込まずにおくという、そのバランスが。そしてミシェルのお母さんがまさに偉人ですよね。
郡司
本当に素晴らしい方ですよね。
手賀
この本には、エピソードも対処の仕方も結構具体的に書かれていましたね。たとえば、自分が制御できる小さな目標をこなしていくことでポジティブになるという。私も「大学卒業までにやりたいこと」リストを作って自分の制御できるレベルでこなすということをしたりしていました。ですから、この本の読後はすごく生活自体を楽しめました。
山田
素晴らしいですね。確かに大きなことを漠然と目指していると、むしろそれに押し潰されてしまいそうな感じがしますが、小さなことを一つひとつクリアしていくと達成感がありますよね。
……と、今回はここまで。予定時間ギリギリまで盛り上がったテーブルトーク会でした。入りきらなかったお話は、また別の場所で……。
※こぼれ話公開は、Xにて、後日お知らせ予定
ミシェルのメッセージをいかに日本の読者に届けるか。お二人が細部にまでこだわり、翻訳・編集をされた過程を知ることが出来て興味深かったです。郡司さんの「嘘のない本を出版したい」、山田さんの「原作者の言葉をそのまま伝えたい」というお話が心に残っています。また、『心に、光を。』の感想や印象に残ったエピソードを共有し、皆それぞれミシェルの言葉に勇気づけられているのだなと感じました。
(高津咲希)
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