台湾留学記 前編「留学生のこころ」

 留学に行きたい。漠然と思いながら大学生活を送ってきた。決断ができなかったのは、大学で出会った、外国語習得に長けた友人たちと比較しての語学への自信のなさと、日本近現代史を研究する自分が、海外でいったい何を学ぶのだろうという疑問のせいだった。

 

 ただ一度きりの人生で、「海外留学」というコンテンツを経験したいだけではないか。そのためにお金と時間をかけて留学をしてもよいのだろうか。そう思っていた。

 

 昨年の春、4回生になろうという春休み。卒業論文で日本の台湾植民地支配について扱いたいと考えていたわたしは、台湾史を専門とする先生が主催した1週間のスタディツアーに参加した。台湾を高雄から台北まで、南北縦断しながら歴史博物館や資料館を巡り、大学で討論に参加する内容の濃いツアーだった。参加者は台湾研究者や大学院生、台湾留学経験者が多く、言語がほぼ使い物になっていないのはわたしくらいだった。それでも感じたのは、「ここで歴史を学びたい」ということだった。博物館の展示や大学生の発言から、歴史という学問の捉え方が日本とは明らかに違うと思った。

 

台湾大学のメインストリートには、
日本統治時代に植えられた椰子の木が並ぶ。

 同時に、海外でも生きていけるという実感を得たかった。たとえずっと日本に暮らしていくとしても、その感覚をもっていることは大切なのではないか。根拠のない心の声が響き、国立台湾大学へ交換留学の申し込みをするも、実際に手続きをする段になるまで、ずっと心は揺れていた。申し込みをしたときは諸々余裕がなく、日本から離れて自由になりたいとさえ思っていた。しかし冷静になれば、日本で日本語を使って何かしているほうが、自分はずっと自由なのだ。そして、周囲の環境に恵まれていることにも気がついた。口では「楽しみ」と言いながら、実際には出発直前まで京都を離れたくなかった。しかし、台湾の先住民族である「原住民」の歴史について修士論文を書きたいと決めた以上、行ったほうがいいのは明らかだった。また、いま行かなければ、今後も海外に住もうとはしない気がしていた。

 

 さて、台湾生活開始から2か月が経過した。来てよかった、と思っている。

 

 語学力が向上したとか、研究に進展があったとか、ごはんがおいしいとか建築が素敵とか、それらももちろん事実ではあるが、理由はそればかりではない。

 

 まず、言われたことが聞き取れない、人見知りをする、三半規管と胃腸が弱い、そういう自分の海外生活に不適応な面と、変わったものを見たい食べたい経験したい、新しい出会いや縁にわくわくする性格やありあまる体力という、留学に適した性質とのぶつかり合いが面白い。自分ってこういうひとだったな、こんな自分いたねえ、と日々わたし自身に出会い直している。留学に来たからといって自分の性格は変わるものではない。ほとんどいちから日常を組み立てる経験を通して、むしろより強く出てくる。どんな授業を取りどんな友人をつくり休日をどう過ごすのか。「自分探しの旅」に意味がないとはよく言うが、留学が自分を少しルーズな視点から見るのに役立つことは間違いないと思う。

 

台湾大学の図書館。寝転べるスペースや
立ったまま勉強するスペースもある。

 そして、留学準備中に伸ばしきれなかった語学力に起因した不安は、思っていたよりもなんとかなる。日本語を話せる台湾人は予想以上に多く、語学の授業では自分のレベルに合ったクラスに入ることができた。自分でも不思議だが、中文で行われる歴史の授業を履修し、レポートやテストを乗り越えている。研究機関のセミナーに参加し、台湾史の大家である先生から研究のアドバイスをいただく経験さえできた。

 

 これらは台湾で暮らす人々の「世話焼き」な親切に支えられた結果だ。優しさの形はいろいろあるが、台湾では困っている人に対してすぐ手足が動く人、いちど知り合った人のその後を気にかけて連絡をくれる人があまりにも多い。自分自身の人との関わり方を見直すきっかけになった。

 

 もちろん、自信をなくすことだって多い。未だに台湾人と中文で会話するのは困難だし、歴史の授業内容は半分もわからない日もあるし、周りの日本人の言語力の高さや国際交流力の高さには圧倒される。また、日本にいる友人たちの研究や就職活動の進展にも焦りを募らせる。

 

 そんな夜には、日本から持ってきた本を読む。呉明益『歩道橋の魔術師』は1980年ごろの台北を回想する若者たちの群像劇。小店がひしめく中華商場の歩道橋にいた、ひとりの「魔術師」。彼をめぐって交差する記憶には、永遠に失われてしまって、思い出すことしかできないものが頻繁に登場する。魔術師は、均等に時間が進む世界とは別のどこかに通じる扉を隠し持っているようだった。豊かになる社会から取り残された、色褪せた憧れや切なさや哀しみが、魔術師の手中で踊る。

 

 わたしを取り囲む目新しい景色は、誰かにとっては懐かしく思い出す風景だ。文庫本のページをめくれば、台北の湿った夜は、あっという間に更けてゆく。

 

呉明益
『歩道橋の魔術師』
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齊藤ゆずか(さいとう・ゆずか)

京都大学文学研究科1回生。2024年8月末から台湾に留学中です。今回は留学に行ってみようかなと考えているひとの背中を押したく、留学に行くまでと、行ってみての心境について書きました。次回はもう少し具体的に台湾での経験をリポートします。


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