あの頃の本たち
「盾をひらく」くどうれいん

 

盾をひらく

くどうれいん Profile


山崎ナオコーラ/河出文庫
定価660円(税込)

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 いつも駅のホームのベンチで本を読んでいた。その駅を利用する高校は三つあって、その中ではわたしの高校がいちばん頭がいいとされている。けれどわたしはそこで本当に、本当の、落ちこぼれだったので、その制服を着て他校の生徒の視線を浴びるのがこわかった。勉強ができず、運動もできず、垢ぬけず、けれど、垢ぬけていないだけで、わたしは暗いわけではない。なんとなく、クラスの中では自分がどのキャラクターにもなり切れていない、中途半端な感じがした。ひょうきんもの。わたしを登場人物として無理やり紹介してみようとすればそうなる。そういう立場でいることで、なんとなく安心できる場所は確保してあった。けれど駅ではひとりだ。ひとりでいるわたしは、相当暗い子だと思われる自信があった。だから知らない同世代ばかりがいる場所では、みんなが自分のことを馬鹿にしているんだろうと決めつけていた。実際は、わたしに誰も何も言っていない。たぶんわたしのことを見てもいない。それなのに自分に何か言われているのではないか、「まだ」言っていないだけで、なにか思われているのではないか。そう威嚇に似た目つきでずっと過ごしていた。
 あたたかい待合室は学生たちでごった返していたから、ホームの寒いベンチで過ごすことが多かった。木の座面はすっかり風化して灰色になり、スカートにざりざりとささくれが引っかかる。そこでいつも文庫本を読んでいた。本の中に潜り込んでいる間は、自分のことばかりを考えずに済む。『人のセックスを笑うな』を、何度も繰り返し読んだ。だれかにタイトルを見られたらからかわれるかもしれないと思う気持ちと、わたしがセックスと名のついた本を読んでいることにぎょっとして欲しい気持ちが両方あった。本屋でたまたま見かけてタイトルに驚いて手に取ってみたところ、引き込まれるとはこういうことか、と書き出しから魅了された。タイトルから想像するよりもずっとまろやかな時間が流れていて驚く。美術の専門学校に通う「磯貝みるめ」の過ごす生活と、その講師である「ユリ」との会話は、いつも同じ温度ととろみを持ってわたしを包んだ。わかりやすい文章で読みやすく、文体も一見やさしい。それなのに人間が、会話が、こんなにも肉体と呼吸を伴ってそこにいる。その頃のわたしは恋に憧れた恋のようなものしか知らなかったから、もしかしたら恋はもっと、人と人とがするものなのかもしれないと思った。そういう恋に強く憧れてユリに心酔していたのだが、読めば読むほどその圧倒的な筆力がわかって今度は猛烈に悔しくなった。
 そのときわたしは、文芸部で小説を書くことばかりを考えていたから、読書は常に悔しさと向き合う行為だった。わたしが書かなくたって、この世の中にはすばらしい作品がたくさんあるという事実は、その頃は(あるいはいまも)わたしにとっては希望よりも絶望と言ってよい。図書館へ行っても、本屋へ行っても、この世の中には信じられない数の本があって、きっとどれも素晴らしいという事実に追い詰められるような気持ちがした。だからわたしは、あのときもいまも、ほんとうは読書が好きではない。一冊ごとに立ち直れなくなってしまうのだ。たくさん読む人はそんなこと言わない。立ち直れなくなっている暇がないほど次々に読めばいい。そうわかっていても難しい。だから、こんなふうに読書についてなにか語ってほしいと言われるたびに、わたしはよじれるほど苦しい。作家だからきっと読書に対してさまざまな思い出があって、思い入れの本が何冊もあると信じてもらっている、その澄んだ眼差しに締め付けられる。そうありたい、ともちろん思う。本が好きで、読書が好きだと言えるようになりたいと強く何度もそう思ってきた。だからこそ、読書と言われて後ろめたい気持ちにならないように、本に守ってもらっていた頃の自分のことを、この頃はよく思い出す。
 寒さに足を震わせながら頑なに駅のホームで開いていた文庫本は、通学するわたしにとってたしかに盾だった。その盾は他者の視線からわたしを守っていたのだと思っていたが、もしかしたら違うかもしれない。わたしはわたしでない人物に気持ちを潜らせることによって、自分で自分を責め続けることから守っていた。教養のためでも趣味のためでもなく、わたしはわたしを守るために読書をしていたのだと思う。あの頃、わたしには、わたしである必要のない時間が必要だった。
 作家として仕事をしていると、この世界に本に纏わる仕事をしている大人がたくさんいるという事実ほど心強いことはない。しかし、新しいものを書く必要がないくらいこの世に素晴らしい本がいくつもある、という事実は相変わらずわたしにとって絶望である。けれど、その絶望は同時に盾になる。心臓の前でひらくちいさな盾に。

 
P r o f i l e
撮影:表萌々花
■略歴(くどう・れいん)
1994年生まれ。岩手県盛岡市出身・在住。作家。
第165回芥川賞候補作となった小説『氷柱の声』、エッセイ集『わたしを空腹にしないほうがいい』『虎のたましい人魚の涙』『桃を煮るひと』、歌集『水中で口笛』、第72回小学館児童出版文化賞候補作となった絵本『あんまりすてきだったから』など著書多数。最新刊は、『湯気を食べる』(オレンジページ)。

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