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伊瀬知美央
伊瀬知
多様で異質な世界の人たちが相互承認できる世界を、どうすれば築いていけるかを研究するに至った経緯を教えてください。
苫野
子どもの時から、学校とか友達関係に馴染めなかったんですよね。なんで生きているのかとか、なんで生まれてきてしまったのかみたいなことを小学校1年生くらいからずーっと考えていて、そうしたらどんどん人が離れていったんです。また、私は幼い頃は外国人の友達が多かったのですが、彼らが日本の小学校に入ったらいじめられて学校をやめていく姿を見てきて、違和感を覚えていました。若い頃はずっとそんな孤独感や違和感を抱いて生きていましたが、高校時代から8年ほど躁鬱にも苦しんで大変な時期に、哲学と出会いました。結果的に、哲学によって、躁鬱をはじめさまざまな自分の問題を克服していくことになりました。哲学は人生の問題から社会の問題まで、とにかくその解を考え抜いた人たちの知恵に溢れているんですね。そういった知恵をさらに発展させて、多様で異質な人たちが分かり合い認め合えるような社会や教育はどうすれば可能かというテーマをさらに発展させたいなと思ったんです。
伊瀬知
先生の本では、哲学によって、自分のずっと信じてきた理念が崩れ、自分と向き合うことになった点が印象的でした。
苫野
学問とか哲学をやる上で、非常に大事な経験なんじゃないかなと思っています。私は若い頃、孤独で結構、人と分かり合ってなんかたまるかと虚勢を張っていた時もありました。でも哲学に出会い、本当は理解し合いたいという気持ちがあったことに気づきました。また、哲学と出会うまでは、この孤独の問題を解消するために「人類愛」という思想を長く強烈に抱いたこともありました。でも哲学に出会って、そのずっと大事にしてきた思想が全部崩れるという経験もしたんです。ひどい鬱になるような経験でした。でも、哲学がもう一度自分を立て直してくれたんです。哲学の強靱な考え方で、自分を立て直すことができた。そして、本当に人々が了解し合い、承認し合えるような社会を、哲学の知恵で組み立て直せるんじゃないかということを直感し、哲学修行を始めました。自分が大事にしてきた考え方が全部崩れることがあるということを知るのと知らないのでは、学問に対して向き合う謙虚さが全然変わってくるんじゃないかと思います。自分の考えは本当に妥当といえるのだろうか、普遍性を持ち得るんだろうかってことを厳しく吟味していく姿勢にもつながる、大事な経験だと思います。

伊瀬知
『本質観取の教科書』という本を出されましたが、現代における本質観取の役割について、お話しいただけますか。
苫野
この世界が再び激しい分断に晒されている今、克服するにはどうすればいいかと言えば、結局対話しかないんですよ。対立を終わらせるには、暴力か対話しかありません。暴力を望まないのであれば、対話を通して共通了解を生み出すしかないんですね。時代的にも、そんな対話を可能にする本質観取はとても重要な哲学の対話実践だと考えています。
今、対話ブームだけど、建設的な対話ってどうしたらいいのか、みんなわからないんですよね。経験も積んでない。でも哲学2500年の叡智の粋を集めた本質観取は、蓄積がめちゃくちゃあるんですよ。例えば「自由」の本質観取であれば、「自由」というみんなが感じたことはあっても、なかなか言葉に出来ないものを上手に言葉にして、自由の本質をみんなで見つけていきます。そうやって、みんなが「なるほど」と思う共通了解を見いだすところが、本質観取の対話の肝なんです。みんな違ってみんないいっていう時もあるけど、それではダメな時があるんですよ。共存のためには共通了解を見いださなきゃいけない時がある。この営みを手放せば、人類は共存できません。だからこそ、本質観取を通して共通了解を得る経験を積むことが、世界平和にもつながると本気で思っています。
伊瀬知
他者と共に生きていく上でも、本質観取を通して共通了解を見いだすことは大切なことのような気がします。対等に対話することってすごく難しい印象ですが、対等な対話についてどうお考えですか。
苫野
本質観取のよさって、誰も答えを知らないところにあるんですよ。だから一緒に知的冒険に出かけていくんです。その意味で、みんな最初から対等なんです。教育でよく、「発問」っていうじゃないですか。実はこれって非常に特殊な質問の仕方で、教師はある種の暴力性を自覚していなきゃいけないと思うんですよ。普通、人に物を尋ねる時って、分からないから聞くんですよ。なのに、発問は教師が答えを持っているのに、子どもにその答えを聞く。これって場合によっては、子どもたちに委縮感を与えちゃいますよね。そして、教師の求めている答えにたどり着かなきゃというマインドを植え付けることになってしまうかもしれません。本当はものを尋ねるっていうのは、分からないから尋ね合うんです。そして一緒に考える。これが対等な対話者ということじゃないかと感じます。ソクラテスの昔から、哲学はそうやって対話を続けてきたんです。そうするとね、誰かがどれだけ強く何かを主張をしたとしても、自分が納得がいかなかったら、粘り強く対話するようになる。お互いに問い合うようになる。その繰り返しで、誰かの意見に引っ張られるんじゃなくて、対話を通して一緒に共同作品を作る感覚を持つ。そういう、誰も知らない問いに対して一緒に答えを作って行く対話が、対等性の実現につながると思います。

伊瀬知
AIが簡単に文章を作ることが出来るようになった今、自分で感情や考えを言語化することの意味についてお聞きしたいです。
苫野
たとえば幼稚園児とか小学校低学年の子って、すぐ手が出ることがあるじゃないですか。でも、もしも、なぜ今自分が嫌な想いをしたか、どうして欲しくて、どうすればこの問題が解決するのかを言語化出来たら、手が出る必要はないんですよね。言語化ってそういうことなんです。ちゃんと人と通ずる言葉を交わすことで、より生きやすくなるし、自分がどう生きたいのかも分かるようになる。でも、言語化するためにはやっぱりまず言葉を貯めて交わし合う体験がすごく大事。それを全部AIに代替させたら、自分で言語化する力がなくなっちゃう。それって結局、自分の人生を不幸にすると思うんですよ。だって、自分がどう生きたいのか、自分の言葉で説明できなかったら、目指すことも出来ないですよね。それをAIに任せていくと、私は人間は不幸になると思う。もちろん思考するパートナーとして活用するのは全く問題ないとは思うんですけど、全部を任せてしまうと、本当に不幸になるだろうなと思いますね。生身の人間同士で言葉を紡ぎ合うことの価値が、今一層浮き彫りになっているんじゃないかと思います。変なたとえかもしれないけど、これだけ文明が発達した今、あえて不便をしにキャンプに行きたくなるように、なんでもかんでもオートメーション化されて、思考すらも機械によって代替されてしまうような時代になると、あえて人と面倒くさい対話をするとか、じっくりじっくり読書するとか、そういったことの価値が逆に浮き彫りになってくるんじゃないかと思いますね。私にとって、今とても幸せなのは、難解な哲学書を何週間もかけて、じっくり読むことです。こんな豊かなことはないと思いますね。2倍速、3倍速で映画を見るような時代、タイパ・コスパと言われている時代だからこそ逆に、一行一行丹念に味わって読むということの価値に、そろそろ人類が気づきますよ。AIが何でもかんでも打ち返してきてくれるから物足りなくなって、もっともっとじっとりと脳に汗をかきながら、人と言葉を交わし合うことの喜びを、我々は一層欲すことになると思います。
伊瀬知
先生は今後、私たちはAIとどう向き合っていくべきとお考えですか。
苫野
AIの登場はある意味チャンスだと思います。例えば教育はAIという究極の家庭教師の登場により、一斉授業の意味がこれまで以上になくなりました。じゃあ学校は何をするところかと言えば、まずは何と言っても民主主義を学ぶことにあるんです。お互いに対等に自由な存在だということを、さまざまな経験を通して学ぶ。対話を通した合意形成の経験をたっぷり積む。今後学校は、学びの本質に立ち返ることがますます可能になると思います。それは「体験」と「対話」です。学びというのは、一方的に与えられたカリキュラムを、ただ頭だけで勉強することではありません。人は、生の体験と生の対話を通して、五感を通して学ぶんです。AI時代だからこそ私たちは学校を、AIには絶対に代替できない学びの場にしていく必要があります。

伊瀬知
先生はよく、よい作品には「ほんとう」の良さがあるとおっしゃっています。
苫野
私はハイデガーの言葉を借りながら、「芸術とは我々にほんとうの世界を開いてくれるものである」とよく言うんです。「ほんとう」は、あえて平仮名で書くんですが、つまり絶対に正しい真理とかいう意味ではなく、ああこれが人間の「ほんとう」の姿だな、これが人間の「ほんとう」の醜さだな、「ほんとう」の罪だなとか。例えばドストエフスキーの『罪と罰』には、人間の罪と罰の「ほんとう」が見事に描かれているんです。ラスコーリニコフが金貸しの老婆を殺すことから始まる物語ですが、人間の生における罰の「ほんとう」は、取り返しのつかない関係の絶対的な変化にあることがありありと描かれている。ラスコーリニコフは、もう二度とこれまでとは同じあり方で家族との関係を持ち得ないんです。芸術は、そんなふうに、「ああ、ここにこそほんとうがある」と思わせる。この「ほんとう」の世界が開かれ示された時に、私たちの心は打たれるんですね。
それとこれはヘーゲルが言っていることですが、芸術は「人間精神の偉大さを感じさせるものだ」と。ある抽象画を見たとき、実は象が鼻で描いたんですって言われたら、その瞬間「ああ、そうだったのね」となると思います。AIが作ったことにびっくりするような作品も多く出ていますが、AIが作ったと言われると、「ああ、そうでしたか」となる。人間精神の偉大さというファクターがなくなることで、そのものに対する感動というのは、かなり削減されると思います。だから今後、AIの力を借りることはあったとしても、人間が自ら芸術作品を創る営みは決してなくならないだろうと思います。
伊瀬知
先生は著作や授業でよく、古典作品の魅力をとことん語っていらっしゃいます。古典の魅力についてお聞きしたいです。
苫野
古典には、歴史の風雪に耐えてきた魅力っていうのがまずあるんですよね。ほとんどの本は数年で消えるんですよ。でも何百年読み継がれているって、やっぱりそれだけの普遍性があるからなんですよね。大学時代、大江健三郎が「残された人生はジェイムズ・ジョイスを読んで過ごしたい」と言っていたインタビューを読んで、その気持ちが今よく分かるんですよ。本当に豊かな人生をおくるためには、本当にいいものだけを読みたいなと思う。本当にいいものって、やっぱり古典に多いんですよ。それだけ歴史の風雪に耐えてきた良いものなんですね。本を通して何百年、何千年も前の人と対話できるでしょ。時空を超えた本質的な思考を共有する対話、こんな魅力的なことはないんですよね。哲学でいうと、人間が考えていることや悩んでいることって、ほとんど考え尽くされているんですよ。それを知らずに、人生の問題とか社会の問題を考えると、せっかくの人類の遺産を無視していることになる。非常にもったいないことなんですよね。それを知っている・知っていないとでは全然違います。私は哲学者として、これまで古典的名著をできるだけ全部時代順に読んできました。そうすると、「あ、ここでこういう問題が解かれたんだな」ということが見えてくるんです。そして次の哲学者が、その上にまた次の問題を解いていく。哲学は思考のリレーなんです。でもそれを知らないと、また同じ問題に徒手空拳で挑んで、そしてトンチンカンな解にたどり着いてしまうことがある。哲学の歴史には、どこにも行きつかない悪い思考のパターンもたくさんあります。だからそれらを知っていれば、現代の問題を考えるとき、「このような考え方は悪手なんだな」と分かるわけです。でもそれが分からなかったら、また同じ悪手を繰り返すことになってしまう。そういう意味でも、古典を読むのってやっぱりすごい大事ですね。
伊瀬知
古典や近代文学を学んでいる身として、先生のお言葉がすごく嬉しいです。行動範囲の広がる大学生にやって欲しいことを教えてください。
苫野
コンフォートゾーンを出ていくのはめちゃくちゃ大事なことだと思いますね。特に若い時はどれだけ異質な他者と出会うかが大事です。たとえばデカルトはいろんな地域を旅したことで自分の常識が他の文化圏では全然通用しないことが分かった。とりわけ若いうちの失敗は失敗じゃありません。だからどんどん外に出ていって、失敗して傷ついて、レジリエンスを身につけていってほしいですね。直接体験は確かに基本だけど、人が直接経験出来る範囲には限度がある。だからこそ、経験拡張のためにも読書をして欲しい。読書は私たちをグーグルマップにするとよく言うんですが、特に若い時は、人生にしても思考にしても、摩天楼群の中で道に迷っているような感覚があるんじゃないかと思います。でも読書を続けていると、突然衛星から地上を眺めるように、いろんなものが手に取るように見えてくるという瞬間がやってきます。そんな見える世界が一変する経験を積める場所こそ、大学だと思っています。

哲学を通して、自分がずっと大事にしてきた思想が全部崩れた経験が、今の自分につながっていると語っていた先生。
一方であらゆる思想を相対化して見ることの危険性も指摘する。
苫野
私が大学・大学院生の時代は、ポストモダン思想が全盛でした。乱暴に言えば、絶対に正しい真理なんかない、ということを、あの手この手で証明し、ありとあらゆる思考を徹底して相対化していく思想運動です。ファシズムやマルクス主義を経験した時代において、これは歴史的な必然であり、確かに大事な思想運動ではありました。
でも、じゃあどうしたらいいのかっていう問いには答えられなかったんですよ。どうすればいい社会をつくることができるの? そもそもいい社会って何? ってなったときに、そんなことは言えません、それは文化によって違いますとばかり言っていたら、何にも出来ないんですよ。だから私は、絶対に正しい真理がないなんていうのは当たり前のこと、でもその上で、なおみんなが納得できる共通了解を見いだすところに、哲学の命はあると言い続けてきました。そんな本質的な考え方をこそ、私自身は哲学者としてずっと探究しています。
対話を通して誰もが納得できる共通了解を探究する哲学対話の「本質観取」。対話を通して物事の本質を深く考えることは、問題との向き合い方を考えることに役立つ。事例を多く持ち寄って考える必要があるため、大人同士の自己開示の場としても機能する可能性もある。
今回の記事を読んで本質観取に興味を持った方にぜひ実践していただけるように、『本質観取の教科書』等を参考に本質観取のやり方をまとめた。
<グランドルール>
<進め方>
先生が理事を務める一般社団法人ホンシツカンシュでは本質観取の会や本質観取の進行役を担うファシリテーターの派遣活動も行っている。興味のある方はぜひ、「ホンシツカンシュ」と調べてみて欲しい。
AIが教育の新たな可能性を開くと語っていた先生。哲学や本質観取へのAIの活用で、興味深い話を聞かせてくださった。
苫野
AIと哲学対話をよくやるんですけど、なぜか全然面白くない。初期のChatGPTなんかは本当に本質観取が出来なくて、だからある程度出来るところまで育てたんですよ。今では、だいぶレベルの高い本質観取ができるんですけどね。面白くない本質はなんだろうなと思って。AIがいわゆる「記号接地」しないことが理由かなとも思ったけど、そうでもなさそう。今は、一緒に言葉を紡いだ感じがしないのが原因かなと考えています。生身の人間との対話は、色んな雑味を交えながら共同作品を作っていく感じがあるんですが、その楽しさがないのが理由かなと思っています。
実は私、自分の著作を全部読ませて、自分のように文章を書ける苫野GPTを作ったんですよ。でも全然ダメですね。今はまだ、自分の方が哲学的な表現は断然上手いと思う。文章に反映された人となりや人格にふれることって読書の楽しさじゃないですか。人は読書を通して人間精神に触れたいんですよ。その点は、まだまだAIには負けていないかなと思っています。

伊瀬知美央(文学部3年生)
人間の熱を持つ自他の言葉の重なり合いでしか見えてこないものがある。全てを同じにすることは出来ない私たちはどうすれば互いを尊重して生きていくことが出来るのかを考えさせられた、密度の濃い時間だった。自分の考えを言葉にすることは、時間をかけて自分の本当に言いたいことと向き合う行為でもある。AIの発展した今だからこそ、言葉を用いて考え抜き、言葉をぶつけ合うことを人は欲しているのかもしれない。
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