あの頃の本たち 「暗かったので」小説家 中村 文則

「暗かったので」

中村 文則 Profile

 今でも基本的にそうなのだが、小さい頃から、とにかく暗かった。
 なのでダンゴ虫の生態に、ずっと目をつけていた。様子を伺うようにモゾモゾ動き、敵が来たら丸まってやり過ごす。初めて見た時は感動した。プルプル震えながら「これだ……」と感じた。人間がいっぱいいるこの世界で(まあ僕も人間なんだけど)、嫌なことや面倒なことがあったら、こんな風にじっとやり過ごせばいいのだと思った。
 だがある日、ダンゴ虫が鳥と遭遇している場面に出くわした。ダンゴ虫は丸まる。「ああ、なんて素晴らしい……」と僕はいつものように打ち震えていたのだが、鳥は丸まったダンゴ虫を、躊躇せず食べた。
 「は?」
 あの時の衝撃は忘れない。せっかく丸まったのに、食べられるなんて。鳥はもう食べたことも忘れたように、スタスタ歩きながらまた別の虫を探そうとしている。世界はつまり、恐ろしいのだ。
 学校に行くようになると、毎日は大変だった。あの頃は一クラスに四十人くらいいて、四十人も他人が集まれば、そこに生まれるのは地獄しかない。ダンゴ虫のように丸まって小中の九年間を過ごすのは無理で、演技をすることにした。明るい演技。でも高校生になり、何かが弾けて急に学校に行けなくなった。不登校。要するに、もう疲れたのだった。
 小説はほとんど読んでなかったのに、太宰治の『人間失格』というタイトルが頭にちらついた。生き難く、学校にも行けないこんな自分は人間失格だから、読んで見ようと思った。皆が学校に行っている時、私服で本屋に行く。読み始め、驚くことになる。多くの太宰ファンが感じるように「これは僕だ……」と思ったのだった。
 生き難い自分はこの世界で異端だと感じていたのに、自分以外にもそういう人がいて、しかもそんな精神のありようが、活字となって堂々と存在している。
 太宰治を手当たり次第読み漁り、太宰が影響を受けたという芥川龍之介にも手を伸ばす。何とか学校に行けるようになってからも、読書は続いた。学校がいくら面倒でも、ページを開けば、そこが自分の居場所になった。当時、クラスで流行っていた小説は、何というか、いかにも中高生が好きそうな話というか、そんな感じで響かなかった。でもクラスで嫌われるといじめに合うので、無理矢理のように渡されるそれらの本を一応は読み、面白かったと嘘をついて返したりしていた。
 色々あって家の環境も悪かったので、故郷から離れたいと思い、僕は愛知県出身だが福島大学へ進学した。福島大学は一年からゼミがあり、学部は社会学部だったが、哲学のゼミを選んだ。福島の人達はみな温かく、ゼミ生は哲学を選んでいるくらいだから、人間の内面に敏感な人が多く、居心地がよかった。僕の人間不信は、徐々に改善されていくことになる。
 大学に通いながら、小説をたくさん読んだ。ドストエフスキー、カミュ、カフカ、サルトル、三島由紀夫、安部公房等々。現代作家も読もうと色々探し、大江健三郎さんに感銘を受けた。僕が読んでいたのが「純文学」と呼ばれるものと意識するようになったのはその頃だった。
 正直なところ、それらの本は難しかった。でも読んでいくと次第にわかるようになってきて、気になって前に読んだ本を読み返すと、あの時はこう思ったが、実はこうとも読めるんじゃないかとか、色々発見があった。今の僕が当時の状況を言葉で書くと「自分の身の丈に合ったものだけでなく、ちょっと背伸びしたものにも触れることで、自分の理解の幅を広げていた」となるが、当時の僕にそんな意識はなく、ただ身体が、精神が読書を望んでいた。貪欲に、膨大な数の純文学を読む。小説だけでなく、映画や漫画など、触れるものに対する見方がどんどん変わっていった。
 小説家には、書く能力と同時に、読む能力が必要だけど(読む能力が高ければ、自分が書いた小説を一方的にではなく、より多角的に判断でき、どこをどう直せばよくなるかなどがわかるようになる)、僕の「読む能力」があるとしたら、大学時代にその土台が完成したように思う。
 こういう本達が、文庫なら数百円で読めるということ。この世界も中々悪くない、と思うようにもなった。僕は小さい頃から人間が嫌いだったのだが、考えてみれば当然だけど、僕を救った小説家達もみな人間だったのだ。
 大学生の皆さんは、今後、年齢を重ねる度に色々と辛いことや面倒なこと、そして絶望することにも遭遇すると思う。それが人生だ。でも小説の世界の中には、きっと皆さんの内面の深いところと繋がる、そんな「仲間」が絶対いるはず。頑張り過ぎないように、どうか頑張って生きてください。
 
P r o f i l e

中村 文則(なかむら・ふみのり)
1977年、愛知県生まれ。小説家。福島大学卒業。
2002年「銃」で新潮新人賞を受賞し、デビュー。04年『遮光』(新潮社)で野間文芸新人賞、05年「土の中の子供」(新潮社)で芥川賞、10年『掏摸』(河出書房新社)で大江健三郎賞を受賞。14年、アメリカでデイビッド・グディス賞、16年『私の消滅』(文藝春秋)でドゥマゴ文学賞受賞。

その他の著書に『最後の命』『悪と仮面のルール』(以上、講談社文庫)、『何もかも憂鬱な夜に』『教団X』(以上、集英社文庫)、『去年の冬、きみと別れ』(幻冬舎文庫)など多数。最新作は『R帝国』(中央公論新社)。

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