あの頃の本たち
「あなたの目、私の目」一木 けい

あなたの目、私の目

一木 けい Profile

 現実だけを生きていくのは時々つらい。その対処法のひとつが、物語の世界へ逃げ込むことだと思う。素晴らしい作品は、遠い外国を旅したかのように気分を変えてくれる。没頭しながら、没頭してしまう理由を考察していると、物語が終わる頃には凝り固まっていた視点が変わることもある。
 『彼女がその名を知らない鳥たち』は、主人公の十和子がDVD を観ている場面から始まる。
 私がこの作品に触れたのも、はじめは小説ではなく、映画のDVD だった。あっという間に二時間が過ぎた。驚き、恐怖、喜怒哀楽。あらゆる感情をゆさぶられ、完全に現実を忘れられた。
 一点だけ、理解しきれない部分があった。それは十和子の同棲相手、陣治がどうしてそこまで十和子を愛するのか、ということ。
 だって十和子は傍若無人でクレーマーで無職。愛嬌と献身に満ちた陣治のことを「卑怯」「不潔」「虫唾が走る」「どじょう!」と罵り蹴飛ばす。背中を揉ませるがセックスはさせない。面食い。昔の恋人が忘れられず、会いたいと毎日思い焦がれている。そんな十和子に陣治は誠心誠意尽くす。なぜ?
 その一点がどうしても知りたくて、書店に走った。

 映画と違って小説は、自分のスピードで世界を進められる。途中で瞼を閉じて、思いを馳せ、人物も文体も思う存分掘り下げることが可能だ。たとえば『彼女がその名を知らない鳥たち』(幻冬舎文庫)は最初から最後まで、頭のなかに靄がかかったような、不思議な浮遊感がある。なぜだろう? 時折立ち止まりつつ読み進めていくうちに、現在形が多いからかもしれない、と閃く。「歩いた」ではなく「歩く」。「頭をかすめた」ではなく「頭をかすめる」。過去形ではなく現在形が積み重ねられることで、得体の知れない不気味さが増す。だからこそ物語の最後、ある人物が確固たる過去完了形で語る、そのひとことが、胸を打つ。

 この小説は三人称で書かれているものの、目線は十和子に固定されている。十和子が見たもの、考えたことしか、私は知ることができない。たとえば、陣治の部屋にある本のタイトル。それを知ることができるのは、十和子がそこを見たから。キスしているとき携帯を鳴らした人物が誰かわからなかったのは、携帯が十和子から見える場所になかったから(映画も基本的には十和子目線だが、固定されているとは言えない。スクリーンに十和子が映っている。十和子が眠っている間の陣治の部屋も、十和子の位置からは見えないはずの着信画面も、映る)。
 主人公の目を通して世界を見るということ。
 正確には、主人公の目というのはいちばん外側にある膜で、内側には読者自身の経験というレンズがある。仕草ひとつ、表情ひとつを、愛と取るか憎しみと取るか。
 本をいったん閉じて、自分の生きている世界の視点について考えを巡らせる。起きたことはひとつでも、受け取る者によって物語は無限にある。勝手に崇拝したり恨んだり都合のいいように捻じ曲げたり。
 私たちは私たちの目でしか世界を見られない。十和子には十和子の世界があるように、陣治も、十和子の昔の恋人も、十和子の新しい恋人も、十和子のところへある日突然やってくる刑事も、それぞれ別の世界を持っている。
 また本をひらいて十和子の内側に入る。私の内側にあるものを抱えて。
 陣治が十和子をここまで愛する理由。
 最後まで読み終えても、それは、はっきりとは書かれていなかった。
 十和子が綺麗だからではなく(むしろ「美人やないのに」と言う)、何か強烈に惹かれるようなエピソードがあるわけでもない。ただ必要としていたのだ。理屈じゃなくてどうしても惹かれてしまう。動物的な感覚。その「理屈じゃない部分」が行間からあふれ出していた。
 行間の絶妙な小説を、味わい尽くす。そしてまた、自分の人生に戻る。
 人生にも行間はあって、あのときの行間に、何十年もあとになって気づいたりする。それすら、自分の勘違いかもしれないが。

 しばらく経って、再びこの映画を観た。陣治が十和子を好きな理由は、ちゃんと描かれていた。それを見つけられたのは、映画を観るのが二度目だからなのか、小説を読んだからなのか。わからない。小説を知らなかった頃にはもう戻れないから、わからない。
 知っていると思っているそのことが正解かどうかも、わからない。
 陣治には十和子じゃないとだめだった。
 作品に触れるたび、そのことをどこまでも思い知る。
 文庫本の表紙になっている電車。それに乗って十和子が遠くの街へ行き、幸せに暮らしている場面が思い浮かぶ。きっとそのとき、十和子はひとりじゃない。そう思うのも、私の目。

 
P r o f i l e
撮影/浅野 剛
 
■略歴(いちき・けい)
1979 年福岡県生まれ。東京都立大学卒業。2016 年「西国疾走少女」で第15 回「女による女のためのR‐18 文学賞」読者賞を受賞。デビュー作『1ミリの後悔もない、はずがない』(新潮社)が大きな話題に。最新刊『愛を知らない』(ポプラ社)が好評発売中。現在バンコク在住。

『愛を知らない』
ポプラ社/本体1,500円+税

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