卒業生のひとりごと
7. ゆめのせかい 門脇みなみ


 記憶の欠片で構成されているらしい夢の中の世界というのは奇妙なもので、現実に存在しないひとと知り合いだったり、一階から二階に行くために階段を下りたり、食べ物の味がしなかったり、どう頑張っても扉の鍵が閉まらなかったりします。

 夢の世界を構築しているものは、おそらくわたしがいままでに経験してきたことや、本で読んだこと、誰かから聞いたこと、空想したこと……等々であるはずなのですが、ときどき現実の世界で一度も会ったことがないはずの謎の人物(夢の中にしか出てこない人物で、何かの作品のキャラクターというわけでも現実世界の著名人というわけでもない)が夢に出てくることがあります。夢の中では、昔から知り合いであったかのように親しく話をしたりしていることもあれば、通行人としてしか登場しないこともあります。あれは誰なのでしょうか。謎の人物の顔の造形や体格などは、オーガンジーの布を一枚かけたみたいにぼやけており、いつだって不鮮明です。

 建物の構造が珍妙なのも、わたしの夢の特徴と言えばそうかもしれません。十階の扉を出たところに地下鉄の改札口があったり、次の部屋に行くためにはすべり台を頭からすべらなくてはいけなかったり、映画館に入るためには風が吹いている落とし穴みたいなところに吸い込まれる必要があったり、大きな桃色のぽよぽよ怪物に追いかけられて家に逃げ込んだら何度施錠をしてもドアが開いてしまったり。おそらくいままでに見たり行ったりしたことのある建物が、記憶の中でぐちゃぐちゃに混ざってしまっているのでしょう。たまにはまともな建物が出てくる夢が見たいので、「建物・街」とプレートがつけられている記憶の箱の中身を、ぜひとも整理したいところ。けれど記憶の整理って、どうすれば良いのでしょうね。記憶専用のルンバのようなものがあって、それで勝手にすっきりさっぱりきれいにしてくれたら良いのに。うっかり必要な記憶まで掃除されてしまいそうですが、「絶対に忘れてはいけない記憶」なんて、きっとあまりないのだろうなとも思います。絶対に忘れてはいけない記憶がもしあるのなら、毎日夢に出てくるくらいの気概を見せても良いのではありませんか。ねえ。

  おかしな夢も楽しい夢も、目覚めてしまえば大半の部分は忘れてしまっています。「このような夢を見たな」とぼんやりとしたイメージはあっても、詳細は覚えていないことが多く、ふんわりとしたイメージすらも時間の経過とともに忘却の彼方です。「現実」を生きているわたしにとって「夢の世界」が曖昧なものであるなら、「夢の世界」のわたしにとってもまた「現実」は曖昧なものなのかもしれません。『ブランコのむこうで』(星新一/新潮文庫)は、主人公が夢の世界の「自分」と入れ替わってしまい、色々なひとの夢の世界を体験するというもの。主人公は自分がその夢の世界の住人でないことを知っているので、夢の世界的にはイレギュラーな存在です。夢の世界の自分と入れ替わってしまった主人公は、ひとの夢の中で眠ると、その夢の主の「現実」の生活を垣間見ることができます。どのひとも夢の中の自分と現実の自分はすこし違うようで、起きてしまうと夢の中の出来事を忘れてしまうようでした。物語は、文字通り眠りから覚めるときのように唐突に終わりを迎えます。夢の自分との入れ替わりが本当にあったことだったのか、それとも「夢の世界の自分と入れ替わって色々なひとの夢の世界を体験したということそれ自体が主人公の夢」だったのか、主人公にとっても読者にとっても、曖昧なままです。

この、ふわふわとした曖昧な読後感は、まさに夢から覚めたときのようだと思いました。最後の頁をめくったとき、夢と現実の境目をふらふらしている、あのときのような感覚におそわれたのです。きっとわたしはしばらくすれば、この物語の内容をほとんど忘れてしまうのでしょう。そして再び読んだときに、どこかで読んだことがあるような感覚に首を傾げながら、初めて触れる物語として読むのでしょう。だって、「夢のはなし」ですから。夢というのは、きっと大半を忘れてしまうところまでがセットなのです。おかしな建造物や知らないはずの登場人物のことも、きっとそのうち忘れてしまうでしょう。ぼんやりと、輪郭がゆがんで、蜃気楼のように消えてしまう。現実にあった出来事が少しずつ曖昧になって、そのうち忘れてしまうみたいに。整理整頓されていない記憶の箱から勝手に出て行って、最初からそこにはなにも、なかったかのように。そうしてすべてを忘れてしまったのなら、そこから先は、一体どんな夢を見るのでしょうか。

星新一
『ブランコのむこうで』
新潮文庫
本体460円+税

P r o f i l e
門脇みなみ(かどわき・みなみ)
『読書のいずみ』卒業生。ときどき空を飛ぶ夢を見るのですが、何故か10センチくらいしか浮かばない上にじたばたしないと進めません。夢の中ならもっと自由に空を泳がせてくれたら良いのに。

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