あの頃の本たち
「叔父が選んでくれた一冊」乾 ルカ

叔父が選んでくれた一冊

乾 ルカ Profile

 小学校の入学式、会場の体育館で思ったことを鮮明に覚えている。
 ここに六年も通うのか。
 それは絶望に近かった。友達百人できるかな、なんていう気分には一瞬もならなかった。私はそのとき六歳だった。自分が生きてきた年月と同じだけ、ここに通うのか──そう考えると、先が見えなさ過ぎて、呆然とするしかなかったのだ。
 私は呆然としたまま小学校生活をスタートし、三年生になった。当然、利発とは程遠い児童だった。授業ではまったく目立たず、なんの取柄もない。得意教科なんてあるわけがない。友達もいない。給食時間だけ、悪い意味で注目された。体の小ささに比例して小食で、当時は食べられない食材も多かった。なのに、配膳されたものは休み時間を潰しても完食を強要される時代だった。給食が嫌で学校を休んだこともあった。
 要は、どうしようもない子どもだった。
 ある日、両親とともに従兄の家に行った。どうしようもない私は、従兄の家でも無気力な顔を晒していたのだろう。見かねたのか、叔父が私を、その日は家を空けていた従兄の部屋に連れていった。叔父は室内の本棚から一冊の本を抜き出し、「読んでみてごらん」と勧めた。
 それは、子ども用に編纂された『アクロイド殺人事件』(アガサ・クリスティー著)だった。
 従兄の本棚は非常に充実していた。数多くの本の中から、叔父がなぜ『アクロイド殺人事件』をチョイスしたのかは不明だ。ただ、読み終えて私はとても衝撃を受けた。このインパクトは、『アクロイド殺人事件』を既読の方ならわかっていただけると思う。それまで本にはちっとも興味がなく、物語といえば、国語の教科書に出てくる作品にしか触れてこなかった私の世界を、一変させるに十分な力だった。
 本の中には、こんな世界があるのか。
 本を読めば、こんな驚きが待っているのか。
 叔父が選んでくれた一冊は、私を「なんの取柄もない子ども」から「本だけは好きな子
ども」に変えた。

 それからは、学校の図書室や地域の図書館に通うようになった。本の世界に入り込めば、学校や給食などの嫌なことを忘れられた。入学式で覚えた絶望を、読書が救ってくれたのだ。現実逃避のツールとして、私にとって本は欠かせないものとなった。
 果てしないほど先のことと思われた六年間の小学校生活も終わり、中学生になっても、高校生になっても、私の現実はどうしようもなかったので、ひたすら本を読み続けた。特に気に入りだったのは、『家族八景』『七瀬ふたたび』『エディプスの恋人』(筒井康隆著)の七瀬三部作だった。超能力者という主人公の特性は、なに一つ取柄がない自分にとっては憧れであり、妄想の種となった。何度も繰り返し読みながら、私は超能力者となった自分を夢想した。
 集英社のコバルト文庫が高校時代の友人間で流行し、互いに貸し借りをしあった。当時人気があったのは北海道出身の作家、氷室冴子さんの作品だった。中でも『雑居時代』が気に入りだった。主人公数子の美貌と破天荒さに憧れた。
 ミステリーにも手を出した。はじめはライトな作品からどんどん読み、本格や海外物に進んでいった。ミステリーを読むとき、私は作中の探偵と競うように、本気で推理した。漫画も外すことはできない。ジャンルを問わず、あればなんでも読んだ。少女漫画に限らず、少年漫画、青年漫画も高校時代から読み始めた。
 読書で現実逃避する日々は、二十代になっても続いた。

 今、こうして自分の若かりし頃の読書を振り返ると、現実逃避の乱読であるのは否めないが、読んだすべての本が今の私の血肉になっていると感じる。今、いろいろあって文章を書く仕事をさせてもらっているが、たとえば小説講座などには通ったことがない。そういえば、乱読したはずなのに、小説の書き方本の類には、目を通さなかった。
 講座やハウツー本で学ぶことを、読んできたすべての本から教えてもらった。デビューするまでにかなり時間はかかってしまったが、後悔はしていない。
 一つ確実なのは、あのとき叔父が『アクロイド殺人事件』を貸してくれなかったら、私はおそらくこの文章を書いてはいないだろうということだ。叔父が貸してくれた一冊の本を読んで、私の世界は変わった。
 本は人を別世界へ連れていく。
 思考の中でも、ときには、人生においても。


 
P r o f i l e
撮影/鈴木慶子
 
■略歴(いぬい・るか)
1970 年北海道生まれ。藤女子短期大学国文科卒業。2006 年「夏光」で第86 回オール讀物新人賞を受賞し、デビュー。著書に「あの日にかえりたい」(実業之日本社文庫)、『メグル』(創元推理文庫)、『てふてふ荘へようこそ』(角川文庫)等、近著に『心音』(光文社)、『コイコワレ』(中央公論新社)、最新刊は『明日の僕に風が吹く』(角川書店)。
 

『明日の僕に風が吹く』
角川書店/本体1,600円+税

記事へ戻る

「あの頃の本たち」記事一覧


ご意見・ご感想はこちらから

*本サイト記事・写真・イラストの無断転載を禁じます。

ページの先頭へ