名著に会いに ②

「戦争」とは何か

河本 捷太
 
 今回はNHK Eテレ番組「100分 de 名著」で8月に放送された『戦争論』を取り上げます。フランスの人類学者、社会学者のロジェ・カイヨワによる、戦争について論じられた本です。まず内容に入る前に、なぜ私がこれを選んだかについて触れておきます。
 私は元々、戦争に関する本をあまり読みません。なぜなら戦争から目を背けてしまいたいからです。戦争は人の命を簡単に、大量に奪う恐ろしいものであり、しかもその戦争を日本は先の大戦をはじめ、これまで幾度もしてきました。そのような残酷な事実を目の当たりにしたくないのです。しかし、戦争から目を背けてはいけないのです。特に現代の戦争はかつてないほどの規模で起きかねないからです。そのため、私はこれを機に『戦争論』を読むことから始めて、戦争について学ぼうと思ったのです。
 カイヨワは戦争の形態を4つに分類して説明しています。原始的戦争、帝国戦争、貴族戦争、国民戦争です。ここではカイヨワが重視した貴族戦争と国民戦争、その変化過程を説明します。貴族戦争は貴族階級のような一部の人間が戦争をし、儀礼化しているのが特徴でした。しかし、フランス革命などの革命を通じ、戦争の形態は変容します。社会が平等化し、主権が国民に移ることで、国の戦争は国民が当事者となる国民戦争となります。
 また、民主主義化だけでなく、資本主義や科学技術の発達により、規模が拡大します。それにより国民による国の総力をあげた戦争=全体戦争となるのです。特に経済活動は注目すべきです。大量生産し、戦争で壊し消費し、また生産する。この永久的サイクルにより、経済的な発展ができるのです。日本での朝鮮特需などがその例です。ここにはいかに速く、大量に生産できるかという合理性が見いだせます。
 さらにカイヨワは「聖なるもの」という概念を挙げて全体戦争を説明します。聖なるものをテキストでは、「『神聖さ』とは違って、もっとプリミティブで混沌とした、恐れを誘うようなもの、それゆえにまた魅惑するようなもの」と説明しています。これが戦争とどう関係してくるのか。私のなかでは、戦争が大規模な殺し合いへと純化し、そこには人間の手には負えない恐怖の対象としての全体戦争が存在し、それに対し国民は一種の錯乱状態に陥り、己の全てを捧げるといったイメージです。ここには魅惑、恐怖といったある種の非合理性が見いだせます。このように戦争は合理的側面と非合理的側面を持つ、矛盾した存在ではないでしょうか。
 このような現代における戦争のことを知り、皆さんはどう考えるでしょうか。当然戦争をしてはなりません。戦争の発端はイデオロギーの違いや利権など、他国と関わる上での対立であって、それをゼロにすることは不可能でしょう。しかし、それらのために命を犠牲にするというのは本末転倒、矛盾だと思うのです。“よりよく生きるため” にその障害となるものを排除しようとし、結果的に自ら“生きることをやめる”のです。
 では具体的にどうしたらいいのでしょう。実はカイヨワはこのことについてほとんど触れておらず、本の最後を次のように結んでいます。

 それには物事をその基本においてとらえること、すなわち、人間の問題として、いいかえれば人間の教育から始めることが必要である。たとえ永い年月がかかろうとも、危険なまでに教育の欠如したこのような世界に、本来の働きを回復させる方法としては、わたくしにはこれしか見当たらないのである。

 私もカイヨワの言う通りだと思います。戦争について知らなければ何も考え、行動することはできないのです。今回のように本を通して理論を学んだり、ルポルタージュを読んだり、TVニュースを見るのもよいでしょう。そうすることで戦争について考えられるようになります。私もまだまだなので、まずは学び、知ることから始めます。皆さんもこれを機に「戦争」と向き合ってみてはどうでしょうか。今回はこのあたりにします。それでは。
 
  • NHKテキスト
    2019年8月(100分 de 名著)
    『ロジェ・カイヨワ「戦争論」』
    NHK出版
    本体524円+税
  • ロジェ・カイヨワ
    (秋枝茂夫=訳)
    『戦争論』
    法政大学出版局
    本体3000円+税
 
P r o f i l e
河本 捷太(かわもと・はやた)
愛媛大学3回生。いずみ委員。最近大学図書館によく足を運ぶのですが、大学図書館は想像以上に素晴らしい所です。書庫に入れば昔の本から海外の雑誌まで。自習スペースで本の香りに包まれながら勉強するのも、これまたいいものです。

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