あの頃の本たち
「心のなかのネズミたち」ほしおさなえ(作家・詩人)

心のなかのネズミたち

ほしおさなえ Profile

 子どものころからよく本を読んでいた。暇さえあれば本を開き、ページをめくった。わたしが子どものころはまだ宿題なんてそれほどなかったから、時間はたくさんあった。父が翻訳者だったので、本ならわりとなんでも買ってもらえた、ということもある。
 海外の児童文学が好きだった。小さな動物が主人公のファンタジー、とくに、「ミス・ビアンカ」シリーズ、ポール・ギャリコの『トンデモネズミ大活躍』、ロバート・C・オブライエンの『フリスビーおばさんとニムの家ねずみ』など、ネズミが主人公の冒険ものが好きで、そのころの本はいまも本棚に並んでいる。
 本を読むのは小さな冒険だ。物語を楽しむのは、いま自分が生きている場所と時間から離れ、別の場所、別の時間を生きることだ。だから、自分と近い子どもが主人公の話はあまり好きじゃなかった。なぜネズミなのかはっきりしないが、自分よりずっと小さい生き物が大きな困難に立ち向かって行く話がとても好きだった(ディズニーでいちばんの人気キャラはミッキーマウスだから、子どもはネズミに共感しやすいのだと思う)。
 家の(というより父の、かもしれない)方針で、小学生のころはマンガを読むのは禁止だった。ミステリやSFなどの娯楽小説もダメだった。父自身がミステリ関係の仕事をしていたのに、だ。理由は、面白すぎて、ほかのものを読めなくなってしまうから。
 それでも小学校高学年になると、フレデリック・ブラウンやレイ・ブラッドベリ、アガサ・クリスティなどの小説は読みはじめてしまった。なにしろ父の本棚には海外のミステリやSFが無数に並んでいたのである。すべて無料で読むことができるし、気が向いたときに本棚の前に立ち、面白そうなものをひょいと取り出し、ちょっと読んでみて、つまらなければ棚に返し、別のものを引っ張り出せばよかった。
 そういうわけで、わたしの読書体験には偏りがある。父の本棚にある和書は、早川書房と東京創元社の海外翻訳ものがほとんどだったから、そのころのわたしは、文庫とはそういうものだと思っていた。だから実際に書店で文庫の棚に行くようになって、そうでない本(日本の文学や海外でもミステリやSFでないもの)がたくさんあることを知って、そういうものなのか、とびっくりした。
 本は自分とは遠い世界で書かれ、海を渡ってやってくるもの、という感覚があった。本が好きだったし、父の仕事を見ていたから、本にかかわる仕事への憧れはあったが、本を自分で書く、という発想はなかった。本は読むもの。しかも、自分から探しに行くものではなく、浜辺に立っているとどこか遠いところから流れ着き、それを拾ってページをめくる、そういうものだと思っていた。
 だから、もう少し成長して、栗本薫さんや新井素子さんのような、自分と地続きの人の書いたものが現れたときはとても驚いた。そういう本は、出版されるとすぐに父から渡され、読んでみろ、と言われた。面白かったし、自分と近い世界が描かれているのが新鮮で、刺激的だった。大学を卒業すると、吉本ばななさんがデビューしたり、自分と似たような年の人が書いた本がたくさん書店に並ぶようになり、本は遠くから流れ着くのではなく、もっと近いところで書かれているものに変わっていった。
 それでもなかなか自分で書こうとは思わなかった。大学も理系に進んだので、まわりに文学を志す人はいなかったし、相変わらず、自分とは遠いところから流れてくるもののように感じていたからだ。書いてみようと思ったのは、たぶん、川田絢音さんの詩と、多和田葉子さんの小説を読んでからだと思う。ふたりの作家の言葉が自分のなかに入って来て、身体をめぐって、わたしのなかにある言葉を外に誘った。かつて浜辺で拾った言葉たちが、もう一度外の海に流れ出して行きたがっているのを感じた。
 いまは自分の書く本のなかに、自分が見て来たもの、聞いて来たものを詰め込んでいる。自分が見たほんとうの世界を詰め込んでいる。これまで読んで来たものもそうだったのだろう、と思う。それを読んで育って来た。
 読書とは、しばしほかの人の心を生きること。本の最後のページを閉じても、その心はわたしのなかに根づいている。子どものころいっしょに旅したネズミたちも、わたしの心のなかにずっと住み続けている。


 
P r o f i l e

ほしお・さなえ
1964年東京都生まれ。東京学芸大学卒業。作家・詩人。
1995年『影をめくるとき』が第38回群像新人文学賞優秀作に。2002年『ヘビイチゴ・サナトリウム』にて第12回鮎川哲也賞最終候補。父親は翻訳家の小鷹信光。

著作に小説「活版印刷三日月堂」シリーズ(ポプラ文庫)、『空き家課まぼろし譚』(講談社文庫)、『夏草のフーガ』(幻冬舎)、『みずうみの歌』(講談社)、児童書『お父さんのバイオリン』、「ものだま探偵団」シリーズ(ともに徳間書店)などがある。

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