あの頃の本たち
「本」深緑 野分

「本」

深緑 野分 Profile

この本を盗む者は
角川書店/本体1,500円+税

 本は、誰の前にでも開かれる。開かなければ、ただ沈黙を守ってそこに在るだけで、別にあなたに噛みついたりはしない。表紙の印象や帯に踊る文言、作者の名前、ネットに上がってる感想でなんとなく読んだ気にはなるかもしれないが、実際に最初から最後まで読み通すと、まったくなんでそんな思い込みをしていたのだろう、と反省する。本は閉じている。開かなければ現れない。
 本は、たくさんのジャンルがある。見知らぬ誰かが主人公の、ここではない場所の物語が記されていたり、化学式を説明してくれたり、役に立つ情報を教えてくれたりする。時には心からの歌や哲学だったりもする。本は知識であり、道楽であり、妄想と嘘であり、揺るがない真実であり、読む前と読んだ後で、あなたを少し違う人間にさせてしまう魔力を持つ。だから怖いと言う人もいる。その気持ちはわかる。
 本は、読めば読むほどえらくなるわけじゃない。読んでない人と会話が通じなくて、あなたを孤独にするかもしれない。今読んだ本が本当に真実を語っているのか疑いはじめ、あるいは、全然好みに合わなくて、壁に投げつけたくなるかもしれない。時間と労力を返して欲しいと思うかも(その文句をつけたい作家の中に私も入るかもしれない、先に謝っておく。ごめん)。感想を作家にぶつけると、良いものなら有頂天で喜ぶが、悪いものだと「ふうん、あなたはそう読むんだね」と鼻を鳴らす。しかしその裏ではうわーんと泣いている。驚いたことに、作家もただの人間なのだ。本の内容はどこからかやってくるもので、作家は人間の言葉に編み直しているにすぎない。
 本は、一次元的だ。ここに書かれているのはあくまでも〝文字〟、とどのつまりは情報伝達の手段であり、そこから意味を見出すのは、読者たるあなたである。本は漫画でも映写機でも3Dプリンタでもないので、あなたが「見た」と思ったものは、あなたの頭の中だけにある。たとえ同じ文章を読んでも、イメージ像は人によって違い、読書会なんかを開くと時々ぎょっとする。あなたが「詩だ、何よりも美しい言葉だ」と感じた文字も、他人からはくだらない駄文や、意味を成さない文字の羅列に読める。あなたはそうやって、まるで指紋のように、人によってものごとの見方は違うのだと知る。
 本は、読者と作者の共同作業だ。読まれてはじめて存在する。誰ひとり読んだことのない本はすでに本ではなく、ベストセラーを支えるブックエンドになっているか、怪物化している。もしあなたがその本のはじめての読者になったのなら、その本はきっとあなたに刺さり、あなたの一生涯の友となるだろう。
 本は、必ずしもあなたを救わない。読書家の友人が、本に救われたのだと熱弁するのを、冷めた気持ちで見てしまったとしても、悪く感じる必要はない。あなたは孤独だが、それでいい。本と馴れ合わなくていい。ただただ面白いから、文字の海を泳ぐ。気がつけば読んだ本が増えている。ひとつひとつを楽しんでいる。「でも救われたとかはないんだよな」、それでいい。なぜなら私もそうだから。私も、本に救われたことがない。本にも、物語にも、救われたことがない。孤独はずっと孤独だし、不安はずっと不安だ。本が自分の代わりに闘ってくれて、自分はのんびりソファに寝そべって耳かきをしていればいい、そんな世界だったら確かに本はあなたを救う。しかし残念ながらこの世界はそうじゃない。あなたの代わりに闘ってくれるものはいない。ただし、不安から注意を逸らすのは、案外効果がある。私も末期癌の母の介護で疲れ切っていたとき、本に逃避していた。何かに挑まねばならない時、避難所として本をバッグに忍ばせておけば、本は必ずあなたのそばにいてくれる。
 本は、薬にもなるが、毒にもなる。本自体は善でも悪でもないからだ。むしろ善の本しかなかったら、この世はひどくつまらないだろうし、善が善であることすらわからなくなってしまう。悪であるもの、影であるもの、誰にも救われないものがあるから、光がわかる。だが、毒にひたりすぎて、あなた自身が毒を吐き始めたのなら、注意した方が良い。本を信用しすぎてはいけない。
 本は、時を経ることで形を変える。一度読んでつまらなかった本が、十年後、嗚咽が堪えきれないくらいにあなたの感情を震わせることがある。何度も繰り返し読んだ本が、あなたの人生の指針になる。
 本は、人間を呼ぶ。大勢の人で賑わう書店の本棚で、静かな図書館の片隅で、誰もいない廃墟で、引っ張り出されるのを待っている。あなたに読まれるのを。あなたは少し立ち止まって、耳を澄ますだけでいい。本の声はちゃんと届く。
 本は、永遠だ。あなたがはじめて本を開いた日から、あなたが最期の息を吐くその瞬間まで、本はそこに在り続ける。あなたが死んだ後、古びても、汚れても、断裁されて粉々になっても、人類が滅んでも、読まれたという記憶を本は覚えている。


 
P r o f i l e
撮影:疋田千里/KADOKAWA
 
■略歴(ふかみどり・のわき)
 1983年神奈川県生まれ。2010年「オーブランの少女」が第7回ミステリーズ!新人賞佳作に入選。13年、入選作を表題作とした短編集(東京創元社)でデビュー。15年に刊行した長編小説『戦場のコックたち』(東京創元社)で第154回直木賞候補、16年本屋大賞7位、第18回大藪春彦賞候補。18年刊行の『ベルリンは晴れているか』(筑摩書房)では第9回Twitter文学賞国内編第1位、19年本屋大賞第3位、第160回直木賞候補、第21回大藪春彦賞候補になる。
 その他の著書に『分かれ道ノストラダムス』(双葉文庫)、最新刊には『この本を盗む者は』(角川書店)がある。

ベルリンは晴れているか
筑摩書房/本体1,900円+税

戦場のコックたち
創元推理文庫/本体980円+税

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