あの頃の本たち
「不要不急のはずがない」中山 七里

不要不急のはずがない

中山 七里Profile  二〇二〇年四月に最初の緊急事態宣言が発出された際、大手取次の日販とトーハン両社のグループ書店および取引先書店のうち八百店以上が休業した。その理由は特措法45条2項、「多数の者が利用する施設」は使用制限や停止を「要請」できるとなっていて、「多数の者が利用する施設」の中に建物の床面積1000平方メートルを超える施設が含まれているからだった。
 対象となった施設は▽映画館・劇場、▽集会場や展示場、▽百貨店、スーパーマーケット、▽ホテルや旅館、▽体育館、プールなどの運動施設▽博物館や図書館、▽ナイトクラブ、▽自動車教習所や学習塾などだが、要するに医療や生活必需品に関するもの以外、不要不急の用件は自粛せよとの内容だ(ネット店舗も同様で、生活必需品以外は早速入荷制限をかけてきた)。各業界の関係者はほとんど例外なく憤慨したのではあるまいか。どんな仕事であれ「不要」と片付けられて腹の立たない職業人は存在しない。
 僕も仕事柄、大型書店の休業には大いに疑問だった。いったいぜんたい書店内で酒を呑んだり大声で談笑したり花見をしたりする者が存在するだろうか。かれこれ五十年以上書店通いを続けているが、そんな客は見たことがないぞ。感染を防ぐ目的で国民を巣ごもりさせたいのであれば、書店は対象外とするべきではなかったか。数百ページもある書籍を立ち読みで読破するような剛の者はまずいないだろうから、大抵は気になった本やお気に入りの作家の新作を購入したらさっさと退店し、自宅に籠ってひたすら耽読する。読んでいる最中は家族とすら話もしない。おお完璧な感染対策ではないか。実際、休業期間が明けると、次に予測される緊急事態宣言を見越して、書籍のまとめ買いをする客が多かったのだ。
 断言してもいいが、読書が不要であるはずがない。フィクションであれノンフィクションであれ、はたまた実用書であれ、読書は魂の糧となるものだ。不要どころか必要不可欠、中には僕のような活字中毒者も少なくない。物語が読めなくなって禁断症状に陥ったら、政府はどう責任を取るつもりなのか。
 僕自身の話をすれば、生来あまり社会に適合した性格ではなかった。人間の友だちが少なく内向的な子どもだったので、あのまま成長していたら、もっと脆弱な人間になっていた可能性が大だ。そういう子どもが曲がりなりにも現実世界に抵抗できるようになったのは、やはり物語の力に負うところが大きい。壁にぶち当たった時、窮地に追い詰められた時、常に指針となったのは親や教師の助言ではなく、小松左京の箴言であり大江健三郎の想像力であり筒井康隆の破壊力でありヒュー・ロフティングの童心であり遠藤周作の宗教観であり開高健の矜持であり五木寛之のデラシネであり新田次郎の蛮勇だった。
 物語は生きていく上での指針になる。登場人物の波瀾万丈の運命はもう一つの体験になる。彼らは皆あなたの友人だ。それほどまでに豊穣なものが「不要」であるはずがない。
 この原稿を書いている八月十七日現在、コロナ禍は一向に終息する気配を見せず、むしろ深刻化の一途を辿っている。今この瞬間にも医療の最前線では医療従事者たちが決死の思いで働いている。ベッドの虜囚となって苦しんでいる重症患者もいる。病気でなくても不合理に怒る人、悲嘆に暮れる人、悲運に泣く人がいる。そんな人たちがもし物語を必要としているのであれば、それは決して「不急」ではない。今すぐに供されるべきもののはずだ。
 「不要不急」の四文字に憮然とする、本と物語を愛する皆さんにもう一度申し上げたい。
 本は、物語は断じて「不要不急」ではない。緊急事態宣言下の今であれば尚更。  
 
P r o f i l e

撮影=平岩享
 

中山 七里(なかやま・しちり)
1961年生まれ、岐阜県出身。『さよならドビュッシー』にて第8回「このミステリーがすごい!」大賞で大賞を受賞し、2010年に作家デビュー。
著書に、『境界線』『護られなかった者たちへ』『総理にされた男』『連続殺人鬼カエル男』『贖罪の奏鳴曲』『騒がしい楽園』『帝都地下迷宮』『夜がどれほど暗くても』『合唱 岬洋介の帰還』『カインの傲慢』『ヒポクラテスの試練』『毒島刑事最後の事件』『テロリストの家』『隣はシリアルキラー』『銀鈴探偵社 静おばあちゃんと要介護探偵2』『復讐の協奏曲』ほか多数。『護られなかった者たちへ』は映画化され、2021年10月1日より公開予定。

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