あの頃の本たち
「マッチ売りのノリ子」新川 帆立

マッチ売りのノリ子

新川 帆立 Profile  私には仮想読者がいる。私の中にしかない架空の人物である。
 熊本県に住む二十六歳、ノリ子だ。福岡県の専門学校を出て、いまは地元熊本で作業療法士をしている。実家から車で十五分のアパートに一人暮らし。趣味はカラオケと読書だ。といっても大して本を読んでいない。休日になると友人と共に近くのイオンに行き、メジャーどころの映画を観る。その帰りにイオンの中の本屋さんで目についた本を適当に買って読む、という程度だ。
 ノリ子にはシュンという彼氏がいる。シュンは二十八歳で、地元の郵便局に勤めている。気のいい青年で愛読書はワンピース。漫画は好きだが普段小説は読まない。ノリ子は気に入った本があるとシュンに強く勧めるため、ノリ子の勧めに従ってしぶしぶ小説を読むことはある。
 ノリ子に深く刺さり、シュンもまあまあ楽しめる。そんな小説を書きたいと常々思っている。
 ノリ子は決して不幸ではない。実家との関係も良好、友人にも恵まれ、職場の人も優しいし、彼氏のシュンも悪くない。けれどもどこか日常に倦んでいて、物足りなさを感じている。何が足りないのか自分でも分からない。だけど、心にスキマ風が吹いていることはどうしようもなく自覚しているのだ。心のスキマを埋めようと映画を観たり、本を読んだりする。何が解決するわけでもないが、いっときの娯楽と感動で数日間をやり過ごすことができる。
 こうやって、自分のご機嫌を取りながら、倦んだ日常をやり過ごしている人が全国にたくさんいると思う。全国のノリ子に少しでも幸せになってほしいし、楽しい毎日を送って欲しいと願っている。
 なぜなら、ノリ子はもう一人の私だからだ。
 宮崎県で育った私は、娯楽と刺激のない毎日に飽き飽きしていた。平和で何不自由のない生活だったが、真綿で首を絞められるような閉塞感があった。自分の知らない世界、外の世界でとんでもなく面白いことが起きているのではないだろうか。自分はその面白いことに触れることもなく一生を終えるのではないだろうか。小学校低学年のころには、胸の内はちりちりとした焦りを抱えていた。
 ファンタジー小説やミステリー小説を読み始めたのもそのころだ。それはまるで息継ぎのようだった。遠くの世界、ワクワクする世界に触れることで、やっと呼吸ができる。
 初めて読んだ本は『ハリー・ポッター』シリーズだ。それから『ダレン・シャン』シリーズにもハマり、『ナルニア国物語』『ゲド戦記』『指輪物語』などにハマる。『宝島』『海底二万マイル』『ローワンと魔法の地図』など冒険小説も読んでいたと思う。英米系の本は面白いと気づき、次に手を出したのが『シャーロック・ホームズ』シリーズだ。私にとっての初めてのミステリー小説である。その後、アガサ・クリスティーにもハマる。
 教科書に載るような小説は全然好きになれなかった。教科書には魔法も剣もドラゴンも出てこない。死体もピストルも探偵も出てこない。小説の面白いところを全部抜き去って、お行儀よく整えたような国語の授業は嫌いだった。
 私の場合、様々な幸運に恵まれて、都内の大学への進学が叶った。大学の生協に来て驚いた。見たことのない本がぎっしり詰まっている。
 当時の私はスタンダールもサガンもカポーティも知らなかった。けれども大学の生協の一番前の列に置いてあったから手に取って一気に読んだ。きっと探せば地元の本屋さんにもあったのだろうけど、それはおそらく棚の奥のほうだ。こうやって世界の名作に自然と触れられる環境というのは本当に素晴らしいと思う。海外文学と呼ばれるようなものは、大学のときにまとめて読んだ。面白いものもあればよく分からないものもあったが、貴重な時期だったと思う。就職してからは読書する時間や体力がなくなって、骨太な作品は全く受けつけない体質になってしまったからだ。その時期、その年齢に必要な本はそれぞれにあるのだろう。
 大学進学以降に私の世界は一気に開かれたし、やっと自分の人生が始まった感じがした。だからこそ、ふと考えることがある。もし私が東京に来られなかったら。地元に残っていたら。地元に残してきたもう一人の私のことをいつも考える。忘れることはできないし、見捨てることもできない。
 といっても、できることは限られている。ノリ子の生活をほんの数日照らすことができるような小説を書くくらいだ。一冊の本を書くのにどんなに頑張っても二、三カ月はかかる。私の二、三カ月を投じて初めて、ノリ子の二、三日間を明るくできるのだ。
 マッチ売りの少女が火をつけるマッチのように、ほんの一瞬、世の中を明るくして夢を見せ、消えていく。一本一本のマッチは微力だが、火をつけ続ければ、こごえる日常を乗り切れるかもしれない。だから私は一本ずつ丁寧にマッチを作る。心にスキマ風が吹いたら、本屋さんに行くといい。そこにはきっと、色々なマッチが置いてある。あなたのためのマッチ箱だから。
 
 
P r o f i l e

写真提供:宝島社
 

略歴(しんかわ・ほたて)
1991年アメリカ合衆国テキサス州ダラス生まれ。
宮崎県出身。作家。
東京大学法学部、同法科大学院を卒業後、弁護士として勤務。『元彼の遺言状』で第19回『このミステリーがすごい!』大賞を受賞し、2021年に作家デビュー。
著書に『元彼の遺言状』(宝島文庫)、最新刊は『倒産続きの彼女』(宝島社)。
 

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