あの頃の本たち
「図書館の片隅で」青山美智子

図書館の片隅で

青山 美智子 Profile


新潮文庫/定価605円(税込)

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 「あの頃」という言葉を見て、いくつかのあの頃が浮かんだのだけれど、今回はシドニーにいたときのことを話そうと思う。
 1993年。大学を卒業してすぐにワーキング・ホリデービザで渡豪した。数ヵ月かけていくつかの街を転々と滞在したあと、長期的にシドニーで腰を落ち着かせることになった。
 携帯電話を持つ人はごくごく限られていて、インターネットも普及していなかった時代である。日本を離れて半年が過ぎると、私は日本語で書かれた「物語」が恋しくてたまらなくなった。新聞や資料ではなく「おはなし」が読みたかったのだ。古本を売っている日本人経営の店もわずかにあったが、当時の私にとっては、気軽に買うには少々値がはった。
 そこでありがたかったのが図書館である。小さな図書館の隅に、日本語の書籍が少しだけ置いてあった。そこにあるタイトルのほとんどは、どうしてなのか伝記や児童文学だった。駐在員が、子どもが読み終わった本を寄付していったのかもしれない。
 あるとき、ジェーン・ウェブスターの『あしながおじさん』を借りた。日本の小・中学校にも必ずといっていいほど置いてあるアメリカの児童文学作品だ。
 昔、ある出版社が帯に「早く読まないと、大人になってしまう」という粋なキャッチコピーをつけていたと記憶しているのだが、私はこの物語を少女時代に読まないまま大人になってしまった。出版社が「早く読め」と急かしていたにもかかわらず、なぜ読まなかったのか?
 実のところ、小学生の頃に学校の図書室で手にはしていたのだ。でも私は、最初の2~3ページを読んで棚に戻してしまった。手紙形式で綴られたその小説は、正直、ひとりよがりな感じがして受け入れにくかったし、主人公のジュディが描いたことになっている挿絵も小学生の私には惹かれるものではなかった。その時の印象が残っていて、シドニーで借りたときも言ってみれば「他にないからとりあえず」という感じだった。原書版を棚で見かけてもきっと素通りしただろう。
 ところが、である。私は『あしながおじさん』にどっぷりハマった。軽く読み始めたつもりが、食事も忘れ、一気にページをめくり、ラストでは号泣したのだ。私はもう、しっかり「大人になってしまった」23歳だった。
 孤児院で育ったジュディ。「あしながおじさん」に月に一度、手紙を書くという条件で(ただそれだけで!)大学進学を支援され、女性として成長し、恋をする彼女。心理描写が豊かでほほえましく、挿絵もけなげに感じられ、それにまた泣かされた。いったい、これのどこが児童文学なのだ? 相当に奥の深い、れっきとした恋愛小説ではないか。これを小学生に理解しろというほうが無茶である。
 それから私はその図書館にしばらく通い、和書棚を制覇した。興味のなかった分野でも、手あたり次第に手を出した。偉人の人生、源家の歴史、日本昔話の絵本にいたるまで読みふけった。日本にいたままだったら、手に取ることはなかったかもしれない。それらの本は、子ども向けのやさしい文体で心の奥深くまで届き、私を夢中にさせた。
 せっかくはるばるオーストラリアに来たのだから、日本語よりも英語の本を読むべきだとお叱りを受けたこともある。でも私はやめられなかった。英語圏で暮らしてみてこそ、私は本当に心から、日本語が美しく素晴らしい言語だと実感したのである。
 それはきっと、日本語に対してハングリーな状態だったからだと思う。空腹時の日本語たちはどれもそれぞれに美味で、私はひとかけらも残さず満足して味わった。
 日本に帰国してから長い月日が過ぎ、海外にいても日本語の物語に触れるツールを誰もが手軽に持てる時代になった。それはとても便利でありがたい反面、今の私は、機器や書店にあふれている「ごちそう」を目の前にしてどれを読んでいいのか時折迷う。自分の書棚にまだページを開いていない本がたくさんあるのに、次から次へとメニューが差し出されている状況である。もちろん「もういらない」と思ったことは一度もないが、飢餓感を覚えることもほとんどない。
 あの頃、まったく日本語が手に入らなかったら、それはそれで割り切って英語の勉強に集中したのかもしれないとも思う。図書館でわずかな日本語の物語に出会えたことが「もっと、もっと」と欲をふくらませたような気がしている。
 皆無でもなく潤沢でもなく、「少しあるけど足りていない」ぐらいの状態は、本当にやりたいことを見つけたり、願いをかなえるエネルギーを蓄えられるチャンスでもあるのだろう。日本語が好きだ、物語が好きだという原動力は、あの図書館の片隅から生まれたのだと、今でも時々懐かしく思い出している。

 
P r o f i l e
撮影:土佐麻理子
 
■略歴(あおやま・みちこ)
1970年生まれ、愛知県出身。横浜市在住。
大学卒業後、渡豪し、シドニーの日系新聞社で記者として勤務。2年間のオーストラリア生活ののち上京、出版社に就職。雑誌編集者を経て執筆活動に入る。デビュー作『木曜日にはココアを』で第1回宮崎本大賞受賞。『猫のお告げは樹の下で』で第13回天竜文学賞受賞。『お探し物は図書室まで』が2021年本屋大賞2位に選ばれる。他の著書に『鎌倉うずまき案内所』『ただいま神様当番』『月曜日の抹茶カフェ』など。最新作は『赤と青とエスキース』。
 

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