あの頃の本たち
「失われる背景を描く」奈倉 有里

失われる背景を描く

奈倉 有里 Profile


文春文庫/定価561円(税込)

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 大学生のころ―― 2002年から2008年まで、ロシアで暮らした。トルストイが好きだという理由で高校卒業後にロシアに渡り、無謀にも外国人のほとんどいない「文学大学」という文学ばかりを学ぶ大学に入って卒業した。インターネット環境もなく日本との連絡手段はほぼ手紙だけ、日本人留学生や在露の日本人どころか日本食とさえもつきあいのない大学生活だった。
 そのせいか、帰ってきたとき私の頭のなかはほとんどロシア語だった。漢字を間違えたり日本語の動詞の使い方が変だったりすることに自分でも気づいて、緊急になんとかしなくてはいけないのは日本語だと思った。会話とか人づきあいとか、そういうのはもともとあんまり向いてないし、別にいいのだ、ちょっとくらい変でも。でもすでに「翻訳を仕事にしたい」と思っていたので、ちゃんと伝わる言葉が書けなくちゃ困る。だから現在の小説や詩や歌にどんな言葉が生きているのかを学びたかった。
 そのとき見つけた作家が、角田光代さんだった。『八日目の蝉』を最初に読み、私は数年ぶりに日本語の魔法にかけられたような状態になって、「ああ、日本語の世界に帰ってこれた」と安堵した。この主人公は自分かもしれないと思うほどのめりこむ体験をもっと味わいたくて、少しずつ楽しみに角田さんの本を読み、ついにはほとんどぜんぶ読んでしまったが、いつも魔法にかけられて主人公になりきってしまうので、肝心の「なにがそんなにすごいのか」がまったくわからない。
 だからこそ『三面記事小説』を読んだとき、目からうろこが落ちた。毎日のように起きる些細な「事件」。不倫相手の妻の殺害を依頼して自首した人、担任の給食に抗うつ剤を混ぜた女子生徒二人。新聞記事だとすれば、もし目に留まっても「なんでそんなことを」とか、「ここ実家の近くだ」とか、せいぜい「自分が同じ立場だったら殺すかな、殺さないよな」と思うくらいで、「でもありがちな事件だ」などと思って三分後には忘れてしまう。そうした記事はみんなどこか似通っている。短い記述のなかになにか暗黙の了解のような、「常識」のようなものがどっしりと腰をすえている気がするからだろうか。当事者たちの姿を想像しようとしても、「薄っぺらい憎悪や衝動を具現化してしまった哀れな人」という感じのイメージしか浮かんでこない。凶器や殺害方法がリアルに描かれればそれは現実に近づくのだろうか。いや、なんだかよけいに安っぽくなるだけのような気がする。
 角田さんの『三面記事小説』は、実在した三面記事をまず提示し、その当事者の視点を小説化したものだ。ドキュメンタリーではなく純粋に創作として書かれているのだが、とはいえ「三面記事を膨らませた小説」ではない。だって、読むとまず驚くのは、「だとしたらこの記事、なんか変じゃない?」ということなのだ。「歪められている」とまではいえないまでも、記事の記述からは大事なことはなにもわからないのじゃないか、という衝撃が走る。三面記事の向こうにいる人たちは薄っぺらくなんかない、ということが前提としてわかっていないと思い至らないことばかりが怒涛のように押し寄せてきて、「事件の当事者じゃなく、そんなふうに想像する私の頭が薄っぺらいのだ」と気づかされてしまう。そうじゃないものを書くのが小説なのだ、と。そしてさらには「わたしたちは日常の情報を処理するとき、それを三面記事的な記述に落とし込む作業をしてやいないだろうか」と自省させられる。わかりやすく簡潔に情報をまとめることは、それ自体どこか暴力的な行為なのではないかと。そういう意味ではこの本は、角田さんの数ある小説のなかでも、かなり挑戦的な作品なんじゃないかと思う。
 この本を読んで以来よく、世のなかの文章にある「三面記事性」について考える。たとえば本の宣伝文や短い紹介文や帯文。数百頁の本を数十字や数百字にまとめるのだから、相当の技術と労力が必要になる。販促の観点からは時事性とのコミットや煽りの流行を取り入れるか否かなどの判断が求められるし、内容を巧みに紹介しながらもネタバレしない絶妙なラインを見極める必要もある。中身を読んでから紹介文を読むと、「うまいなあ」と唸るようなものもあれば、そうでないものもある。個人的には、角田さんの小説に「三面記事的」な紹介文がついているとき、いちばん「ううっ」と苦しくなる。もちろん、いちファンの勝手な呻きである。
 小説で身近な事件や事故が扱われることはよくある。角田さんの小説の主人公たちも、赤ちゃんをさらったり、裁判員に選ばれたり、若い愛人を作って大胆な詐欺で老人からお金を騙しとったり、新興宗教にはまりこんだりしてきたわけだが、でもいま私がここに書いたのはきわめて「三面記事的」な紹介でしかなくて、本を読むと、そういうふうには書かれていない。そこに惹かれてやまないのだ。

 
P r o f i l e
■略歴(なぐら・ゆり)
1982年生まれ、翻訳家。
2002年からペテルブルグの語学学校でロシア語を学び、その後モスクワに移住、モスクワ大学予備科を経て、ロシア国立ゴーリキー文学大学に入学、2008年に日本人として初めて卒業し、「文学従事者」という学士資格を取得。東京大学大学院修士課程を経て博士課程満期退学。博士(文学)。
著書に最新刊『夕暮れに夜明けの歌を──文学を探しにロシアに行く』(イースト・プレス)、『アレクサンドル・ブローク 詩学と生涯』(未知谷)。主な訳書に、ミハイル・シーシキン『手紙』、リュドミラ・ウリツカヤ『陽気なお葬式』、ウラジーミル・ナボコフ「マーシェンカ」(『ナボコフ・コレクション マーシェンカ/キング、クイーン、ジャック』より)(以上、新潮社)、サーシャ・フィリペンコ『理不尽ゲーム』『赤い十字』(集英社)、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『亜鉛の少年たち』(岩波書店)など多数。  

イースト・プレス/定価1,980円(税込)購入はこちら >

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