出雲紀行
「祖父の足跡」

 松江駅から市営バスで走ることおよそ二十分。ところせましと並んでいた家々はまばらになり、あたりには、水の張った田んぼが広がっていた。ぽつぽつと建つ家の赤い瓦は、五月の日差しを受け照り輝いていた。「次は、八雲立つ風土記の丘」と運転士さんが言った。「ここが、おじいちゃんの―― 」。唾を飲み込み、降車ボタンに手を伸ばした。
 祖父は大の古代史好きだった。私がそれを知ったのは、本人が亡くなって十年以上経ってのことである。その時は本当に驚いた。なぜなら、私もそうだからだ。
 

 祖父が亡くなったのは私が小さい頃のことだったため、思い出らしいものはない。しいて言えば―― よく日に焼けた顔から、ヤニのついた白い歯がのぞいて怖かった。書斎に入ってきた私を見るなり、それまでの囲碁の番組をアニメに変え、「どうぞどうぞ」と言い椅子から立ち上がった。そのぐらいである。祖父は島根県、松江で生まれた。今はもうあとかたも無いが、生家は出雲国庁、古代の役所跡の真近くだったらしい。また、曽祖母の家は、そこから少し離れた国分寺、古代のお寺跡のほぼ隣だった、とも聞いた。それとの関係はわからないが、元気な頃はしょっちゅう遺跡や博物館を巡っていたそうだ。アニメに夢中で気付かなかったが、書斎の本棚には古代史の本がびっしりと並んでいる。
「じいちゃんが生きていたら泣いて喜ぶわ」私が目をきらきらさせて、遺跡や博物館の話をするのを聞いて、祖母は言う。今はもういない、性格すらよく知らない祖父が今更ながら身近だ。出雲国分寺跡、曽祖母の生家の真どなりで、ポケットに手を突っ込んでこちらに微笑む祖父の写真が、書斎には飾ってあった。
 

 前置きが長かったが、ゴールデンウィークに、とうとう松江に行った。名古屋の空港から飛行機で一時間かけ、出雲に到着した。降りると、四方をなだらかな山に囲まれ、水の張った田んぼや黄色がかった麦畑が広がり、はるかに遠くを見渡せた。地元に似ていたが、赤い屋根瓦の家々、松の木でできた生垣は、島根に着いたことを実感させてくれた。
 出雲から松江へ移動し、バスで二十分。祖父が昔訪れた、八雲立つ風土記の丘に着いた。この考古学博物館の建つ一帯に、国庁や国分寺が置かれていた。博物館に入り、恐る恐る、受付の人に話しかけてみた。「実は私の祖父は国庁跡、曽祖母は国分寺跡の真近くに家があったんです」。三十年前、祖父が資料館で受け取ったパンフレットを開き、手書きの住所と、地図にふってある黒丸印を指差した。受付の方は目を見開いた。「まあそんな、ここにゆかりがあるんですね」目を潤ませたその人はとても嬉しそうで、懐かしいような、不思議な気持ちになった。
 自転車を借り、祖父の足跡を辿った。だだっ広い、真っ平なところであった。土がつき、でこぼこした畦道をしばらく走った。国庁跡の中心には、小さな森に囲まれた六所神社があるらしい。それらしいものが見えてこず不安になりかけたところ、本当に小さな茂みが、そして上に神社の千木らしいものが見えた。すると左手に太いしめ縄が見え、思わず息を呑んだ。国庁跡に着いたのである。自転車を停め、額の汗を拭いながら草を踏み分け、整然と並ぶ柱を見ながら野原に佇んだ。驚くほど静かで、広かった。近くには、こんもりと深い緑に覆われた茶臼山が見え、鳥のさえずりと、わずかに風に靡く、草の擦れる音が聞こえるだけであった。はるか昔、お役人が難しい顔をして文書を作っていたのだろう。しかし、今は静かで優しい空気に包まれている。
 

 そこから、曽祖母の家を目指した。畦道は土の匂いがし、タイヤが道の出っ張りにぶつかるごとに水筒がはね、チャポチャポと音が聞こえた。国分寺跡に着いた。跡は斜面に沿って北に進むとだんだんと小高くなっていく。草を踏みしめながら登ると、あたりを広く見下ろせた。ここも、時が止まったように静かであった。あの写真を思い出した。赤い瓦、緑色の野原。その頃とほとんど同じだ。石碑の隣に立ち、ポケットに手を突っ込み、父に写真を撮ってもらった。祖父は、確かに同じ景色を見ていたのだ。
「じいちゃん、来たよ」。空は青く高く、吸い込まれそうであった。田んぼは日差しを受けてきらきらと、光を反射していた。「おお、万由子、ここはええところやろ?」祖父の声が聞こえそうであった。
 
執筆者紹介
後藤 万由子(ごとう・まゆこ)
名古屋大学医学部五年生。やっと叶った祖父の足跡辿り。一人だと危ないから、と暑い中ついてきてくれた父、朝早くから送り出してくれた母、祖父のことを教えてくれた祖母と叔母。この場を借りてお礼を言いたいです。


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