あの頃の本たち
「幸福なんて無理」乗代雄介

幸福なんて無理

乗代 雄介 Profile


講談社文庫/定価616円(税込)

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 大学三年の時に休学した。理由は、矛盾するようだが、読み書きに集中するためだった。それまで大学の近くで一人暮らしをしていたのを戻され、復学して卒業するまでの1年は、最初から最後までほぼ座ることの出来る通学路線を選んで通い、往復6時間ずっと本を読んだ。
 「あの頃の本たち」というタイトルを知らされて、人生で最も本を読んだその1年のことが思い出された。当時の記録を見ると、全集もかなり交じっているのに年間500冊ぐらい読んでいる。1日の半分は読書で、残りの半分は本の印象に残ったところを書き写したりブログや小説を書いたりしていた。去年、学生時代から28歳で小説家デビューするまでに書いた字数を概算してみたら、残っているものだけで419万字あった。
 このエッセイもそうだが、読書について文章を頼まれることがよくある。いつも困ってしまうのは、書くために読んでいるという自覚が昔からあるせいだ。大学時代も、趣味でそこそこ読んでいるようじゃダメだと思っていたが、そんなことは書きづらい。
 とはいえ、これはそれほど珍しい考えでもないと思う。世間で読書離れとか本離れとか言われ始めて、もうだいぶ経つ。(特にこういうエッセイでは)誰も言わないけれど、ちょっとやそっと本を読んだくらいじゃ大して何にも変わらないことを、みんな本を読まないでも薄々わかっているのだ。それは「ちょっとやそっとじゃ」というのが、読書に限らず当てはまることだからで、実際、私を含めた誰もが、色々な「ちょっとやそっと」によって日々を潤している。でもそれでいて、完全に満足しているわけでもない。タイパなんて言葉からもわかる通り、無理せず多くの情報を得て「ちょっとやそっと」を超えたいという気持ちは、誰しもの心の内に燻っているはずだ。
 十数年前の私は、今思えば効率の悪い無理をした。人付き合いも一切なかった。ただ、そこまで夢中になれるものに出会えて本当にラッキーだった。無理というのは、しようと決めてできるものではないからだ。
 それを思い知らされたあの頃の本として『「岩宿」の発見』を紹介したい。岩宿遺跡を発見して旧石器時代が日本に存在したことを証明した相沢忠洋の自伝である。受験勉強でその名を覚えている人も多いだろう。
 まず、その人生が凄まじい。9歳の時、母が突然家を出て一家離散。寺に入れられ奉公に出されという少年期を過ごすうちに戦争が始まって海軍へ志願し、駆逐艦の工員と仲良くなって家に招かれたら、その人の奥さんが自分の母親だったりする。出撃を待つ瀬戸内海では、広島の閃光とキノコ雲まで見ている。
 最低限の教育しか受けられなかった彼は終戦後、群馬県の桐生で納豆などの行商をしながら、在野研究者として考古学に打ち込んだ。お金はないが気力と体力は常軌を逸し、発掘した石器について大学の研究者へ質問しに行くため、自転車で桐生と東京を一日で往復することが何度もあった。荒れた道を片道9時間、約130キロ。これは別の本からの引用だが「往復だと一日の三分の二を自転車に乗っていたわけであるが、東京に行って、また新たな知識を得られるのかと思うと、それほどつらくはなかった」という。
 すごいのは、そんな半生が実に淡々と書かれるところだ。さらに、そんな態度を貫けるのは、太古の昔への情熱が彼を支えているからだと伝わるところだ。考古学に興味を抱いたきっかけは、家族一緒に暮らしていた子供の頃に近所で土器が出て、昔の人々が生活に使っていたものと教わったことだという。それはいつしか、自分から早々に失われた「家族の団欒」がどこまで遡れるのかという思いとなって、彼の生涯を決定づけた。
 相沢忠洋のことを思うたび、私は読書について広く語りかけるための言葉を失っていくような気がする。「ちょっとやそっと」なら、みんな無理なくやったりやらなかったりするだろうし、その中でいい出会いや学びもあるだろうから、それでいいと思う。
 でも、何かにとんでもなく夢中になるかもしれない人―― 大学生は無理を試すことができる時期だ―― のためなら、本や読書に関する言葉を残しておける気がする。
 人の営みは底が知れず、求める何かについて書かれた本が既に必ずあるものだ。また、その道を進むためのヒントがあらゆる物事に見出せるものだ。相沢忠洋が自転車で東京から桐生に帰る時、荷台の箱は購入した本で一杯だったという。また彼は良寛の詩を好み、孤独な生き方の指針とした。私も彼の本を読み、こんな風に生きたいと強く思った。
 お金や帰り道の心配をしなくなったら、きっとそこは夢の中だ。どこかで無理をしながらそこに留まる限り、つらいことにもつらさはなく、全てのものから学び楽しむことができる。そんな幸福がこの世にはあると、覚えておいてほしい。

 
P r o f i l e
ⓒ浅野剛
■略歴(のりしろ・ゆうすけ)
1986年北海道生まれ。法政大学社会学部メディア社会学科卒業。作家。
2015年「十七八より」で第58回群像新人文学賞を受賞し、デビュー。2018年『本物の読書家』(講談社)で第40回野間文芸新人賞受賞。2020年「最高の任務」で第162回芥川賞候補。2021年「旅する練習」で第164回芥川賞候補、第34回三島由紀夫賞受賞、第37回坪田譲治文学賞受賞。2022年「皆のあらばしり」で第166回芥川賞候補。2023年「それは誠」で第169回芥川賞候補。その他著書に『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』(国書刊行会)、『掠れうる星たちの実験』(国書刊行会)、『パパイヤ・ママイヤ』(小学館)などがある。

『それは誠』
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