聞き手=後藤万由子(名古屋大学医学部5年生)
著書紹介
夏川草介
『スピノザの診察室』
水鈴社/定価1,870円(税込) 購入はこちら >
治らない病を抱えることは本当に不幸なのか―― 京都の地域病院の医師、雄町の考える「人の幸せ」とは。どれほど苦しい状況でも考え続け、できることを続けていく。病める人だけでなく、世の全ての人の心にあたたかい光を灯す物語。(後藤)
後藤
『スピノザの診察室』では京都を舞台に描かれています。これまでの作品は長野を舞台に描かれていましたが、今回はなぜ京都を選ばれたのですか。
夏川
今回は、「治療とか医療の最前線から少し奥に踏み込んだ人間の幸せ」という『神様のカルテ』とは違うテーマに踏み込んでみたかったんですね。だから最初から、物語の舞台となる場所も変えようと思っていました。京都は生まれ育った街なんです。自分が知っている街で信州以外を考えた時に出てきたのが、自分の中に染みついている景色や人が自然に動き出す京都でした。あえて京都を選んだというより、実家の力を借りたというイメージですね。
後藤
では、今回は『神様のカルテ』などとは違う、もう少し思想的な深いところを書くにあたって、長野からいったん離れたという感じなのですね。
夏川
同じことをしようと思ったら『神様のカルテ』の続編で十分ですからね。
後藤
今までと「違うこと」、特に書きたかったこととは何だったのでしょうか。
夏川
『神様のカルテ』は自伝的な要素が強い作品です。もちろんフィクションですが、主人公が歩んできた道と私自身が歩んできた道はとても似ている。登場人物の中には、実際に私がお世話になった先生のイメージが結構しっかり投影されている人もいます。
でも今回はそういった医療の景色を細かく描くのではなくて、これまでの医師人生で出合った、医療では覆いきれない問題に―― 「治療」や「看取り」というわかりやすい言葉では、捉えきれない大きな領域が現場にはあって―― そこに向き合いたかった。それが使い古された言葉だけど「人間の幸せ」というものになるんだと思います。
治すことだけを考えると、治らない患者さんに対する対応策が何もなくなってしまう。たとえば関節リウマチや糖尿病のように、治らないまま、なんとか付き合っていかないといけない疾患なんて山のようにあります。治らないことが悪いことだと考えていては、とてもやりきれません。
看取りももちろん大切ですが、そもそも人生のどの段階から看取りが始まるのか、何も決まっていない。余命が三ヶ月だろうと一ヶ月だろうと、看取りという言葉が似合わない人だっています。医療者側が積極的に看取りの準備を始めた時点で、もうある歪みが生じるんです。
こういう医療という枠組みだけでは捉えきれない問題に踏み込みたい、それが「人間はどうやったら幸せに生きていけるか」というテーマでした。
後藤
そこでスピノザの「どうにもならないことの中でもできることを見つけていく」という哲学が出てくるんですね。治らない病気でもその中でどう幸せに過ごしていくかといったことが書いてありましたよね。それは他の作品にも出てきますが、そのような哲学はご自身が大切にされていることですか。
夏川
大切にしているというより、20年間医者として仕事をしてきた中で自分が辿りついた答えなのだと思います。20代の頃は治すことに必死でした。たとえば、ちょっと極端な例ですが、脚のむくみがとれないという90代の患者さんの場合、そのむくみをとるために薬を増やしていって症状は改善されたけど今度は脱水で苦しんでいる、みたいな本末転倒の結果になることがあるんですね。だから、「むくみがあっても大丈夫」という治療法に代えてみる、それは諦めるのではなくて「これぐらいなら大丈夫」といった極めて専門的なさじ加減が必要になってくるのですが、治すことだけに注力しているとそのさじ加減には到達しないんです。そういうことを経験しながらこの20年で自分が築いてきた哲学が、作品に反映されているんだと思います。
でも、こんな風に言語化できていること自体、小説を書いてきたおかげでしょうね。書くという行為が多分自分の考えをまとめる作業になっていて、書き上げて初めて気がつくことだって、沢山ありますから。
後藤
では、そうやって小説を書くことで心のバランスも取れる?
夏川
むしろ心のバランスをとるために書いていると思いますよ。そうでないと現場に戻れない瞬間があるので。『臨床の砦』(小学館)などコロナ禍に書いた小説はまさにそんな感じでした。ただでさえ睡眠不足なのに、緊張と不安で眠れない。とにかく何か書いて考えをまとめないと、明日出勤しても、防護服を着てレッドゾーンに入れる気がしない。そういう感覚だった。医者によっては、辛い症例を受け持っている時は、毎日夜中に20キロ走るという人もいます。その先生にとっては過酷なランニングが自分の気持ちを整理する方法なのでしょう。私にとっては執筆がそれなのだと思います。
後藤
「病気が治らない」という言葉は、ともすれば絶望感が漂うと思うのですが、スピノザの哲学を通してそれを「希望」と言っているところが印象的でした。私も実習で膵癌の患者さんと接したことがありますが、もし自分が同じ立場だったら、家族やこれからのこととかを考えて前向きな気持ちにはなれないと思いました。
夏川
あくまで私の考え方なので、それが正しいかどうかは別の問題ですよ。私の哲学には、希望と同じぐらい重い「諦め」みたいなものがあるんです。「諦観」と「希望」のバランスをとるのはすごく難しい。もちろんすっかり諦めてしまうと何も生まれない。
でも「頑張って困難を乗り越えよう」という前向きな態度は、ときに人を傷つける場合があるんです。たとえば5年生存率が数パーセントしかない膵癌患者さん相手に「頑張って病気に立ち向かおう」と言うのは、やっぱりどこかに嘘がある。「努力すればなんとかなる」という考え方は、努力がうまくいかなかった時に自分に跳ね返ってくるんです。我々医者は跳ね返ってきてもいいですよ、でも患者さんはそれが跳ね返ってきた時に「自分の努力が足りなかったのか」と自分を責める場合があるんです。何が悪かったのか、なぜ癌になったのか、食生活か、タバコか、酒か、と。何も悪くないんです。残念なことだけど、何も悪くないという考え方がスピノザの哲学だと思っています。それが希望の持ち方なんですね。
私はこういう考え方は、医療の世界だけでなく、困難にぶつかっている多くの人を元気づけてくれると思っています。病人だけでなく、健康な人だって百年後には死ぬんです。だから「何が悪かったのか」と聞かれた言葉に「何も悪くない」と答えられれば、人生少しは愉快かなと。ややこしい話です(笑)。
後藤
雄町先生も看取りの後に「これでよかったのか」と考えつつも、代わりに「お疲れ様でした」って、そういうことなんですね。
夏川
難しいですよね。でも自分が死んだ時に主治医が「これでよかったのか」って悩んでいるのをみたら、やっぱり違和感があるじゃないですか。場合によっては医者のエゴイズムに見えかねない。それよりも「お疲れ様でした」と見送ってくれれば、亡くなった側も「これで良かったんだ」と思えるかもしれません。もちろん医療者としては、あとで反省や振り返りはしますけど、亡くなられた時はまず敬意を払って「お疲れさま」。生きている人間は、勉強でも反省でも、あとでいくらでもできますからね。
後藤
何が正しいか分からないし、自分が良いと思ったこともエゴかもしれないというのは、結構苦しいですね。
夏川
苦しいですよね。ずっと悩み続けるんでしょうけど。続けることには多分意味があるんですよ。割り切ってしまうと、そこから進歩がなくなりますから。
後藤
『神様のカルテ』の大狸先生を思い出しました。
夏川
そうそう、大狸先生はずっと言っていましたね、「悩み続けるからいい医者になる」と。悩まなくなったときは多分ダメなんでしょうね。しんどい仕事でありますよ。
後藤
悩むことに意味があるのですね。でもそれも一つの希望……。
夏川
そうだと思います。そうやって次の症例に活かして、でもその視点の中でも、いずれ自分も送られる側になると常に思うようにしています。私は20代の時にあまりにたくさんの人が亡くなるのを見すぎたのか、30代に入ってから、なんとなく「死ぬ準備」というのを考えているんです。大事な物は一カ所に仕舞って、家族には「自分に何かあった時には、ここの引出の中をまとめて捨ててくれ」と。特別な悲壮感はありませんけど、健全かというと微妙でしょう。バランスというのは難しいですね。
後藤
秋鹿先生がそれこそ死の淵を見てしまうと自分はもう戻って来れなくなると思い悩んでいました。夏川さんもこれまで亡くなっていく患者さんを見て、気分が落ち込むといった経験はありましたか。
夏川
それは山のようにあります。きっとみんな歩む道ですよ。でも医者が落ち込むかどうかは患者さんにとってはあまり関係ない話ですので。
後藤
物語の中で「不意に私の知りたいことに答えを与えてくれそうな一文が書いてある」と雄町先生が言っていましたが、実際にそういった一文があるのですか。
夏川
スピノザはそんなにたくさん本を書いていないのですが、私が特に気に入っているのは『エチカ』と『知性改善論』の二つで、それぞれにいい文章があるんです。ただ、そこの言葉だけを抜き出すと誤解を招くので、興味があれば頑張って読んでみてください。とても難解な思想家で、いくらでも解釈が分岐する書き方をする人ですから、読むのは大変です。でも分かりにくいことを自分の中で理解しようと努力をすると見えてくる景色があるんです。あくまで私の印象なので、みんなが同じように感じるとは限りませんが。
後藤
夏川さんは哲学の本もたくさん読まれているようですが、どうしてそういった分野が好きになったのですか。
夏川
もともと本が好きなのは母の影響です。「本を読め」、「本を読まないと他人の気持ちはわからない」といった、今の自分の核となる哲学は、母からそのままもらったものでしょう。
私が本を読んだのは、多分悩みがあってその答えを探してたんですよね。もともと友達も多くはなくて、相談相手と言える人もほとんどいなかった。そんな中で夏目漱石を読んでいる時にふと教えられるような言葉に出会ったんです。こういう本ともっと出会いたいと読み続けていたら、いつのまにか哲学の分野に広がっていって、そこでまた、自分が探していた言葉に出会うという経験を重ねていきました。
ただ、本を読むという行為には、いくつものハードルがあります。特に傑作と言われる作品や、哲学領域の本は、難しい文章が多い。年齢を重ねれば自然に読めるというものではないし、読みやすい本をいくら読んでも、難しい本が読めるようにはなりません。時には一年がかりで一冊の本を読むこともあれば、一文を何度も読み返しながら、進んだり戻ったりするような読書もある。そうやって、時間をかけて本と向き合っていると、時々世界観がひっくり返るような思想や言葉に出会うことがあって、ますます読書がやめられなくなるんですよ。
後藤
本当にたくさん本を読まれたのですね。だから作品の登場人物もすごい本を読んでいるんですね。
夏川
そうですね。そういう人物を書いているのが一番楽しいですからね。
後藤
今まで読まれた中で一番好きな本は?
夏川
難しい質問です。多くの人に受け入れられる本を一冊だけ紹介するなら、夏目漱石の『三四郎』でしょうか。これは読書の入り口になるという気がします。まず日本語が美しい。優しい日本語ではなくて若干レベルの高い日本語、そして恋愛のからんだ比較的入りやすいストーリーです。さらにこの作品は『三四郎』『それから』『門』という三部作の一冊目ですから読み終わった後に、次の作品へと世界が広がっていく。そういう意味では、あらゆる世代の読書の入り口として、『三四郎』はいい作品だと思います。
後藤
日本語が美しい?
夏川
そうですね。日本語とその言い回しの面白さとかですが、川端康成のように無駄のない透明な美しさとはまたちょっと違って、リズムがあって、読んでいて楽しい文章を書きますね、夏目漱石は。
後藤
これからどういった作品を書いていきたいですか。
夏川
『本を守ろうとする猫の話』は三部作を予定していて、その2冊目が来年出ると思います。『神様のカルテ』も次に何を書くかは、ずいぶん前から決まっているんですが、自伝的な話を余裕がないときに書くと、どうしても愚痴っぽくなるんです。もう少し時間がかかりそうですね。『スピノザの診察室』も、続刊を書くつもりでいますよ。
ただ、執筆については壮大な計画があるわけではなくて、医療現場で大きな問題にぶつかった時に、答えを探すために書き始めるという感覚です。とりあえず『スピノザの診察室』を書いて少し気持ちが落ち着いたので、また現場に戻って集中します。
後藤
今日は現役医師の傍ら執筆をされている夏川さんに、いろいろお話を伺うことが出来てすごく嬉しかったです。ありがとうございました。あと『スピノザの診察室』の中に赤福について書かれているのがすごく嬉しかったです。これは一番お伝えしたかったことです(笑)。
(収録日:2023年11月2日)
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