気になる!ゴッホ

 
 いま僕の目の前にある絵の描写をしてみよう。これは僕のいる療養所の庭の眺めで、右手は灰色のテラスと病院の壁面。花の散ったバラの茂みがいくつかあって、左手の方は庭の地面―― レッドオーカー―― 陽に焼かれた地面は落ちた松葉におおわれている。庭園のへりには幹も枝もレッドオーカーの大きな松が何本も植わっていて、葉の緑は黒が混じって陰鬱な感じを帯びている。これらの高い木々は、黄色い地に紫の縞模様が入った夕空の空にくっきり浮き出ている。空の黄色は高くなるとピンクに変わり、緑に変わる。塀―― これまたレッドオーカー―― が視界を遮り、それを超えて見えるのは紫とイエローオーカーの丘だけ。さて、すぐ手前の木は巨大な幹だが、雷に打たれ、鋸で切り落とされている。ところが一本の側枝が非常に高く伸びて、暗緑色の細枝が滝のように垂れ下がっている。この陰気な巨人―― 憔悴した傲慢の人のような―― は人間の性格として考えてみると、その向かいの、しおれゆく茂みに最後に残る一輪のバラの弱々しい微笑といい対照をなしている。木々の下には人のいない石のベンチがいくつか、黒っぽいツゲの茂み。空が―― 黄色く―― 雨後の水溜りに映っている。ひと筋の陽光、最後の照り返しが暗い黄土色オーカーをオレンジ色にまで高める。黒い小さな何人かの人影が樹幹の間をあちこちうろついている。

『ファン・ゴッホの手紙【新装版】』みすず書房刊(373頁)より

 
 

親愛なフィンセント

 初めまして。私は貴方が亡くなってから百年と少し後に日本で生まれた者です。貴方の絵と文章がとても好きで、貴方が家族や友人に宛てて沢山の手紙を綴ったように、私も貴方に手紙で伝えたいことがあります。突然のお便りですが、どうぞご勘弁ください。
 まずは私にとっての貴方との出会いからお話しします。といっても初めがいつだったかは曖昧です。なぜなら、現代において貴方の作品はあまりに有名で、気づけば心に住んでいるから。貴方の生きた時代では新しすぎて受け入れられなかった貴方の絵たちは今世界中の人たちの目に触れ、心を震わせています。私も幼い頃に『ひまわり』と出会い、全面が黄色いことに驚きと、そして暖かさを今も感じています。この絵はアルルに貴方が築こうとした画家達の共同生活場「黄色い家」で、仲間を迎えるために描かれたそうですね。だからこんなに暖かいのでしょうか。描かれている花たちは、花びらを落としていたり、俯いていたりするのに。私がこの絵が好きなのは、花一本一本が心を持っているように見えるからです。例えば厳しい局面を幾度も乗り越え勇ましい皺が刻まれた気品あるお婆さん、純粋無垢に上を見上げる少年に。
 私はアーティゾン美術館を訪れる度『モンマルトルの風車』の前で佇んでしまいます。貴方の筆触を間近に見つめられることが本当に幸せなのです。一筆一筆に込められている魂のようなものが感じられるから。そう、私が貴方の絵に心揺さぶられるのは貴方の絵が「生きている」からです。『じゃがいもを食べる人たち』の手がその手で土を掘って食物を得たことが実感を持って伝わるから、力強く引く短い線の重なりが『花ざかりの桃の木』が根を伸ばす大地のエネルギーを伝え、『夜のカフェテラス』の木のさざめきを伝えるからです。弟であり友であるテオ夫妻の赤ん坊に贈った『花咲くアーモンドの枝』の瑞々しさはまるで赤ん坊の指のよう。そして『星月夜』。この絵は一体何なのでしょう。この引力。手を伸ばせばあっという間に向こう側へ引きずり込まれそうな渦。貴方の絵はどこかに寂しさが潜んでいることが多いと感じます。勝手な想像ですが、理解されないことへ、この世に一人で立つことへ、寂しさを覚え、でもこの絵には寂しさに勝る希望が輝いていると思う。まだ見えないけれど確かに太陽の光は空を明るく染め出し、星は鼓動のように強く瞬き、二十六夜月もまだ空を照らしてくれている。空の渦は、寂しさも苦しさも圧倒して呑み込んでかっさらってくれる優しい風か大波。糸杉、他の誰もこうは描かない炎のように激しく剣のように剛い糸杉。なぜか無性に抱きしめたくなるこの木を、貴方はよく描いていますね。すっくと空まで伸びるこの木は、貴方のようであり、不器用に真っ直ぐに生きる愛しい生物みんなであるように感じます。
 家族や友に宛てた手紙。他者に読まれたくないかもしれません。しかし、貴方の生き様、思想は多くの生きにくさを感じている人の光となると思うのです。オランダ、ベルギー時代の手紙は親族とのすれ違いによる苛立ちも多く、読むのが苦しい時もありました。しかし自分はほぼ全裸になっても貧しい人に服を与え、傷つけられても相手を気にかける姿は、パリで理想郷“日本”に憧れ、凝り固まった価値観の世間で日の目を見ない貧しい画家達のための共同生活場を築くことを夢見る姿と重なるものがありました。その人の人柄が滲み出る肖像画を描くことを何より好んだ貴方は、きっと人が大好きだったのでしょう。困難と病気に苦しむ心を、この猛烈な仕事で未来の画家達の道をつくるんだという気持ちで和らげようとする姿は、ヒロイズムからではないと貴方は言いますが、頑なで柔らかい人への愛に溢れているように見えます。
 死の一年程前に描かれた『麦刈る人』―― 貴方は人類は刈り取られる小麦かもしれぬという意味での死のイメージを見たそうですね。「しかし、この死には悲しいものはなにもない。ことはすべてのものを純金の光でみなぎらせる太陽のもと公然と進行する」。貴方はこの頃からゆっくり死に向かっていたのでしょうか。貴方が死にゆく時に持っていたテオへの手紙の最後の言葉がずっと引っかかっています。コローが死の床で「空が一面バラ色の風景を夢に見た」と言った話に心惹かれた貴方は、最期にどんな景色を見たのでしょうか。
 どんな暗闇にいても常に光を追い、光へ向かって進んだ人。貴方が見て、描いた世界は本当に美しい。冒頭に引いた貴方の手紙の中の貴方自身の絵の描写、あのひと筋の陽光は貴方自身が放つ光だと私は思う。

貴方に心からの握手を。

 

気になる!関連図書 紹介文:徳岡 柚月

  • フィンセント・ファン・ゴッホ
    〈二見史郎=編訳、圀府寺司=訳〉
    『ファン・ゴッホの手紙
    【新装版】』

    みすず書房/定価5,940円(税込)購入はこちら > 本文章のゴッホの言葉は本著から引用しています。静かで美しく、時に激しく険しい土の道をゴッホと共に歩き続けることができる名著。貴方の夜をそっと照らす光となる言葉が見つかるかもしれません。

     
  • 圀府寺 司
    『もっと知りたいゴッホ』
    東京美術/定価1,760円(税込)購入はこちら > 絵も、絵が描かれた背景も、ゴッホや彼の周囲の人の言葉も豊富! 本著に収録されているゴッホの数少ない水彩画の一作『ひまわりの咲くモンマルトルの小道』をぜひ見てほしいです。すっと入り込んでしまう、優しい世界。

     
  • 原田マハ
    『たゆたえども沈まず』
    幻冬舎文庫/定価825円(税込)購入はこちら > 冒頭から凄まじい。映画に入り込んだよう。オーヴェール=シュル=オワーズの風景を知らなくてもはっきり網膜に映るし、風の音さえ聞こえます。原田さんの『星月夜』の解釈は、「なるほど!」と手を打ってしまいます。
 
 
執筆者紹介
 

徳岡 柚月(とくおか・ゆずき)

京都大学大学院農学研究科修士2回生の徳岡柚月と申します。『さよならソルシエ』(穂積/小学館)でゴッホ兄弟が大好きになりました。本文ではあまり触れられませんでしたが、フィンセントに興味を持たれた方はぜひテオにも注目してほしいです。あと、おすすめの美術館を教えてくださると嬉しいです!

*「気になる!○○」コーナーでは、学生が関心を持っている事柄を取り上げていきます。


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