井手上さんが高校時代に行った制服改革のエピソードについて教えてください。高校1年時から動き始めて実現に至るまで2年間かかったということですが、井手上さんにとって当事者と第三者が分かり合うために大切なことは何なのでしょうか。
それはもう、認め合うという心です。ジェネレーションギャップはしょうがないことだと思います。時代はこれからも変わっていくものだし、今、私たちがここで交わしている会話も10年後、20年後にはそんなのありえないと言われる世の中になっているかもしれないじゃないですか。
例えば、私は今21歳ですが祖父母世代の方から言われることや、指示されることは、愛情だと思っています。昔、私の祖父は、私が可愛い服を着ると、怒鳴るような人でした。だから私は当時祖父が大嫌いでしたが、成長するにつれ考え方が変わりました。
多様なセクシュアリティなど認められていない時代を生きてきた経験から、自分の孫が変わり者と言われて生きていくと考えたときに、社会で立ち向かう壁があまりにも高すぎて、この子はきっと大変だろうなとか、人間関係に苦しむだろうなという、私を想うがゆえに起こる不安や心配から私を怒っていたと思うんですよね。
こうやって考えられるようになったのも、認め合う心を常に持ち続けていたからなんです。なぜ分かってくれないのか、なぜそんな言い方をするのかと、お互いに思っていても、何も解決しないと思います。
高校時代に制服改革をした時に先生とぶつかり合ったことがありました。その時は、一度その話は持ち帰り、性別に悩んでいる子が制服を着ることですごく苦しんでいるという状況を、分かりやすく伝えるにはどうしたらいいんだろうと考えたんです。
その先生は生物学上も心も男性だったので、「先生は、明日からスカートをはいて学校に来てくださいと言われたら、来られますか?」と聞くと、「来られない。恥ずかしいから」と仰いました。「私たちは、その恥ずかしいという心のまま学校に来ています。先生はいつも『学校は勉強するところだ』と言うけれど、私たちが勉強以前に学校に来ること自体にストレスを感じるのは、生き生きと過ごす権利をこの制服に奪われているからです。」と言ったら、すごく分かってくださったんです。
ぶつかり合う前に認めあい、受け止めあう、そうすることできっと言い方も変わってくると思うし、調和性や尊重し合う心も芽生えて、解決につながっていくのだと思います。これは性別に関してだけでなく、他のことにも通じると思うので、私たちに必要なのは認め合う心かなと思います。
認め合う心……ちょっと前提的な話をしますが、LGBTQ+や「性別がありません」と言う人に対して僕がどういった印象や考えを持っているのかというと、本当に「失礼なことですみません」と言うしかありませんが、世間一般に多い無関心な部類に入るのかな、という感覚が自分としてはあります。
だから、そういう人たちに対しては否定的になるということすらそもそもないということですが、実際に苦しんだり辛い思いをしたりしている人がいるという現状に、理解しようとしたり動こうと努力したりすることもできていなくて、そもそも認め合うという心すら持ってないという状態です。
だからこそ、こういった機会をいただいてお話をお聞きすることができたのは非常に貴重な経験で、自分としてももう少し考え方を変えるべきだということにつながったので、本当に有難いと思っています。
井手上さんが言われる言葉や表現を表面的にただただ聞き取るだけではなく、それにはどういう意図や背景があるのかというところもしっかり考えるべきところから、まずは始まると思います。
井手上さんは、認め合う心を持つ上で第三者に特に意識してほしいと思うことはありますか。
認め合うということは、表面的なものでOKだと思っています。よく聞くのが「理解しよう」「理解し合おう」という言葉ですが、私は「理解」は違うと思います。その人の生い立ちや苦しんだ姿を見てきて、その人の人生の分岐点はどこなのかということがすべて分かったときに、初めて「理解する」という言葉が使えると思います。
本当にどん底に落ちている時は、他者が言う「理解してあげるよ」「理解できるよ」という言葉はあまりにも危険すぎると思うんです。きっと当事者は「分からないくせに」と思います。人って、そんなに簡単に他人のことを理解なんてできない。それこそあまりにも安易すぎて、スカスカなただの表面的なものにすぎないと思ってしまうんですよね。
でも、その人の雰囲気や話し方や表現や空気感などで、この人は真剣な話をしているのだろうとか、きっと辛いことがあったんだろうなとか、なんとなくは読み取ることはできませんか?
例えば久野さんがすごく大切に思っている友達が、「実は俺はゲイなんだ」と打ち明けてくれたとします。それは何気ない日常の会話ではなくて、ちょっといつもとは違う空気感で、2人きりですごく真剣な声のトーンで。久野さんがこの人はきっと初めて自分に真剣な話を打ち明けてくれているんだろうと知ったら、もちろん戸惑うじゃないですか。
きっと久野さんも、受け入れるまで時間がかかると思うんです。でも、多分その人が求めているのは、心の底から自分を理解してほしい、分かってほしいということではないと思います。ただ、久野さんがさっきおっしゃった「関心がない」ということ、「俺、本当に無関心だからどうでもいいんだよね」、これがベストアンサーで、私はそれでいいと思います。
「無関心」は「認める」の範囲内だと思うので、きっとその人からするととても救われる言葉になると思います。どうでもいいとか興味がなくて「あ、そうなんだ」程度でいてくれたほうが、認めてはくれているんだ、別に打ち明けたことで今までの関係性が崩れるということはないんだという安心感を得ます。これで私はグッドだと思うし、もっと深い絆が生まれるかもしれないと思う。
私の中で「認める」というのは、安易だけど安易じゃない。「理解」のほうが私はすごく軽いものだなと思うので、理解が簡単に飛び交ってしまうと借り物だなと感じてしまいます。
だから「認め合う」ということが大事だという考えにたどり着きました。
自分としても「理解」という言葉の意味合いがどんなふうに捉えられているのかというところまで深く考えていませんでした。言い方を変えれば「理解」という言葉を便利に使えるという捉え方があるということが、今の井手上さんのお話で分かったところです。
「無関心」が、当事者の方々にとっては肯定的な言葉の1つとして認めてもらえるというのも、自分としては今まで経験してこなかった新しい考え方だったので、これも軽いととられるかもしれませんが、本当に勉強になったと思います。