土井 善晴氏インタビュー 「食べる」ことは、秩序ある日々の営み ~家庭料理の原点に立ち返って提案する「一汁一菜」~ 

料理は心を整え、自分の土台を作る

自炊は自立、今あるものを上手に食べること

サッカーの代表監督(日韓W大会)であったトルシエさんが、日本では24時間いつでも食べ物が手に入るという環境を、「こんなに簡単に食べ物を得られるから弱いんだ」と言っていたくらい、彼にはいつでも簡単に手に入る環境を異常に思ったんですね。食べる依存度の大きさは、人間の弱さにつながります。
自炊というのは自立なんですね。自立して初めて大人だと言えるのです。子供は依存しないと生きていけません。食事とは料理して、食べること、料理と食べるはセットです。食べるだけでは、足りないでしょう。関係性の中に豊かな感情は生まれるのです。あれがしたい、これもやってみたいと思う情熱もそれです。自炊は、作ると食べるを一人二役をしているわけですから、作る人と食べる人の関係があります。
何を食べようかと思うことは自然を思うことであり調理は生鮮食品(自然物)に触れることです。そこには無意識のうちに、あらゆる経験をしているのです。経験があって、初めて未来に計画が立てられるのです。夜は家に帰ったらあれを食べるから、お昼はどうしようと考えられるでしょう。

数学者のおか きよしが「情緒というものが無ければ、数学の本当に難しい答えは導き出せない」と言っています。そのように人間にとっては情緒を感じ取る力。違いに気づくことが感性です。それは身体能力なのですから、磨くことで強くなるのです。単に加工食品を温めたりするだけでは、人間と人間、人間と自然の関係性が何もない世界になってしまいます。腹を満たすだけの食事には、何もないです。それではあまりにももったいないのです。

僕はこの春から一人暮らしを始めるのですが、料理をする時間そのものにも、その準備段階で買い物するなどの時間にも意味があるのだと分かり、自炊して食べることが楽しみになりました。

僕は現在一人暮らしですが、自分で味噌汁を作るときには、豆腐とワカメ、たまにホウレンソウを入れるという感じです。でも、土井先生のSNSを拝見すると、先生はみんなが味噌汁に入れないような具を入れていらっしゃいます。一番印象に残っているのがパンの耳でしたが、どういう時に入れようと思われたのでしょうか。

今の世代の人の方の思い込みが激しいというか、習ったことしかできなくなっている気がします。私の父の世代は、自分で工夫する力です。今あるものを食べることです。フランス人はパンを炒ってポタージュのクルトンにします。固くなったパンをカフェオレに浸して食べる。味噌汁はなんでも会うし、パンだって当然合うわけです。パンの耳を入れるくらい誰でもやっていたことです。
豆腐にワカメ、大根の千六本に油揚げ、ジャガイモに玉ねぎと、近年はそれぞれの家庭で味噌汁に入れる具は2種類くらいとだいたい決まっていたようですね。それはおかずがたくさんあったからです。でもおかずが作れないなら、料理しないというのでは困る。元々日本には、肉や魚というようなメインディッシュなんてなかったのです。それは敗戦後、日本人の栄養改善ということで、栄養学に基づいて推し進められた考えです。ところがそれによって生活習慣病が増えて、料理ができなくなった。だから今「食事を初期化することが必要なんです。それによって文化を取り戻せればいいなと思います。一汁一菜を入口にすれば、誰にでも料理ができることがわかります。続けていれば自由自在に料理できるようにだってなる。
味噌汁って何を入れても自由だって言ってますが、一椀の味噌汁という有限の世界に自由があるのです。
だから味噌汁には無限の変化や美味しさがあるんです。料理は自由ではないですよ、料理は命と関わりますから、なんでも好きにしてはいけません。自由とは制約の中にあって制御されるものです。

一人暮らしの料理は誰のため?

先ほど料理は愛情というお話がありました。では、一人暮らしで、自分で料理して自分で食べる時は、誰に愛情を向けたらいいのでしょうか。

家族であれば、家族が作って自分が食べる、自分が作って家族が食べる。人間が生きていくために必要な要素を家族は皆で補完し合います。特に子どもにとっては、その関係性がとても重要です。それが一人暮らしでも必要なことですよね。料理すればオートマチックに愛しているということです。その愛情は自分自身に向けられているのです。自分を大切にすることです。それは君の家族にとっても、安心だし、幸せなことです。一人暮らしは、自分で料理をして、きれいに整えて食べるということの繰り返しです。自分を整えるというのは、心の秩序を取り戻すことです。
ご飯を左に味噌汁を右に香の物を奥にと、三角形の秩序ある形を作る。きれいに整えたら、そこでだらしなくはできにくい。禅宗の僧侶の生活と同じで、きちんとすることで自分の土台作りをしていると思ったらいいですね。自分の背景にある家庭の生活を土台にして、その上に大学生活で学んだものを乗せていきます。
その土台は“人間の器”です。器ができていなかったら、いくら勉強ができても何か物足りない、分かるはずのことが分からない、きれいな絵を見ても何も感動しない。器が育っていないからです。

僕は料理をルーティーンとして捉えていましたが、疲れた自分を一日の終わりに整えるボタンというか、これがあれば元気になれるなと思えるような一つの要素だと思えてきました。