片渕 須直 監督インタビューこの映画の「片隅」に込めた思い~描かれなかったいくつものこと~

アニメーション映画監督、片渕須直さんが監督・脚本を務めた『この世界の片隅に』は、2016年に公開されると幅広い世代から大きな反響を呼び、日本のアニメ映画史上最長となるロングラン上映記録を打ち立てました。国内外からも高い評価を受け、数々の映画作品賞・監督賞を獲得しています。
その後は、あらためて別作品として作られた『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』(2019)も現在公開中です。
今回のインタビューでは、片渕監督にこの映画に込めたご自身の思いをお聞きしました。

インタビュイー

片渕 須直 かたぶち すなお 監督
プロフィール

聞き手

  • 安井 大幸 やすい まさゆき
    全国大学生協連 全国学生委員会全国学生委員長
  • 林 優樹 はやし ゆうき
    全国大学生協連 全国学生委員会全国学生委員

はじめに―自己紹介

全国大学生協連学生委員会はよりよい生活と平和の実現というスローガンを掲げており、「Peace Now!」など学生自身が平和について考え、発信をしていく取り組みを行っています。今回、片渕監督の『この世界の片隅に』を拝見し、戦時下における人々の暮らしを自分に引き寄せて考えられる作品だという感想を持ちました。
このサイトの読者である学生に向けて、監督より平和の話や社会の話、新たな気付きを教えていただきたいと思います。まずは、自己紹介をお願いできますでしょうか。

アニメーション映画を作るという仕事に携わり、今年でちょうど40年になります。大学3年生21歳のときから始め、ずっとアニメーションの仕事だけやってきましたが、ここ10数年は母校の日大芸術学部映画学科で(特任教授等の)活動をさせていただき、割とそこで学生たちと接触があります。けれども、昨年・今年度は学生と顔を合わせられず、学生と直に接していたら直接的な触れ合いができるのにと、この状況の難しさに直面しています。
それから一昨年、コントレールという僕の次回作の制作母体となる会社を設立しました。そこに在籍する人たちは、大半は去年と今年で採用しています。ただ、3月に募集して4月に即入社というように非常に不定期に募集するので、そういう意味でいうと新卒ではない人が結構多いですね。在学生もいます。その人は卒業したら来ると言うので、何カ月か経ってから来てくださいという採用の仕方もしています。
自分が仕事を始めたときもそういって呼んでもらったのですけれども、新鮮なスタンスというか考え方を持った人と一緒にやっていきたい、そう思って会社を立ち上げました。もう3年目になるのですが、人がようやく揃い始めたというところです。この間まで大学の僕のゼミに3年間ももぐりこんでいたという人がいます。よそのゼミなのですが、僕のゼミに毎週出席して3年間いた(笑)。そういう人たちと一緒にこれから仕事をしていこうかと思っているところです。

全国大学生協連 学生委員の林優樹と申します。福山市立大学出身です。広島県広島市で、『この世界の片隅に』にも出てきた草津の出身です。高校も江波にある舟入高校というところで、映画を観ているうちに「昔はこんなふうだったんだ」と、タイムスリップをしたような感じで観させていただきました。

草津は、もう埋め立てして風景が変わってしまいましたものね。

全国大学生協連 全国学生委員長の安井大幸です。出身は愛知県一宮市で、大学から沖縄に行きました。琉球大学在学中の4年生です。

僕が受験したときは芸術学部映画学科が本命だったのですが、ほかには歴史を勉強したかったので教育学部、それと色彩のことが好きだったので絵具を作ろうと理工学部、その全然傾向の違う三つを受験して、実は理工学部に最初に合格したのですがこっち(映画学科)に来ちゃったのですね。でも、今は歴史的なことをいろいろ調べながら作品を色付けしていくようなことをやっています。受験のときは全然違う三方面を受けたはずだったのですが、結局最終的に全部一緒になっているのです。面白いと思いましたね。

そうですね、最初はこれだけだと思っていたのが、学んでいくうちに全部なにかしらつながっていて、「あ、ここも関係してくる」と。

そうそう。いろいろと勉強の過程は違いますが、それらが最後は活きてきたので、役に立つのではないかと思いました。

大学生が「自分ごと」として社会に関わるために

「片隅」にある真実

僕は『この世界の片隅に』を拝見させていただいて、戦争という枠組みで考えるのではなくて、そこで生きている、その中にいる人々の暮らしにフォーカスが当てられ、そこに「片隅に」という言葉に込められている思いを感じました。
大学生が戦争や社会の動きに対して「自分ごと」としてとらえるという話を僕たち自身もしますし、学者や教育者の方もそういう話をよくされるのですが、そうはいってもなかなか自分ごとにしづらいという意見を、セミナーの参加者などから聞きます。『この世界の片隅に』を作る中で、片渕監督ご自身が自分ごとにするという意識を育むためにはどういったことが必要だと感じていらっしゃいますか。

なぜ人ごとになってしまうのでしょうか。それは、当時の人々と現代の自分たちがすごく違うと思ってしまっているところがあるからではないですかね。確かにいろいろな面で違うように見えます。例えば、当時の女性はモンペをはいているし、男性は国民服を着ている。でもそれって、いつ頃からでしょう?
「あの戦争」というものをいつから規定するのか分かりませんが、例えば満州事変からだとすると、昭和6、7年ぐらいから昭和20年までずっと戦争をやっていますよね。最初からモンペをはいていたのかな? 最初から国民服を着ていたのか? 最初から食べ物は配給だったのでしょうか? と考えてみると、どこかの地点までは今の我々と同じ生活をしているのですね。文化的に違うのはテレビがないだけ、もちろんパソコンやゲームもありませんが、大きくいうと当時もほとんど現代とあまり変わらなく見える生活をしていたわけです。サラリーマンの人は仕事をして、終わったらビアガーデンにビールを飲みに行く。現代と何ら違いがないような感じです。女の人たちはちょっとお金を持っていたらかわいらしい服を、当時は自分で作ったりするのですよ。昔の人はいつも和服を着ているような印象がありますが、和服って高価なのです。若い女性はお金をあまりかけたくないから和服を自分で縫うのではなく、洋服だったら簡単に作れるので、自分でブラウスやスカートを洋裁で作る。だから、若い女性ほど普通に洋服を着ています。生活がそんなふうだった時点まで一度戻ってしまう、時間をさらにさかのぼってしまうと、戦争中の時代を飛び越えた向こう側って今とあまり変わらないという気がしてくるのですよね。
『この世界の片隅に』の一つ前に作った『マイマイ新子と千年の魔法』(2009)という、昭和30年が舞台の映画があります。で、分からないことがちょっと出てきました。例えば当時がどういう雰囲気だったのか分からない。写真を見たいなと思って昭和10年代の写真を見たら、「ああこれだったのか」というのが出てきたのです。つまり、戦争中の時代を挟んで、その前と後ろが直接つながっているみたいな感じだった。戦後のほうはずっとつながったまま、我々の今のところまできているのですよね。じゃあ、あれは何だったのだろう。その戦争中の時代、我々から見たら違和感のある、自分たちとは違う恰好をしている。あれは何だったのだろうなと考えるようになりました。
例えば、戦争中の時代の女性はモンペをはいているじゃないですか。あれは、なんではくようになったか分かります? 法律があったから? いえ、ないのです。男性は国民服を着ているけれど、あれは国民服令という法令があるのです。ところが、女性のモンペに関してはありません。なのに、なぜはいていると思います? そして、あれをはいた当時の女性たちは、これをはけて素晴らしいと思っていたでしょうか?

『この世界の片隅に』にはワンピースが出てくるシーンがあったので、やはり今監督がおっしゃったように、女性がおしゃれをしたいという気持ちは当時もあったのでしょう。しかし、いろいろな廃止例が出てくる中でそういったことをしているのが協力的ではないとか、なぜそんな贅沢をしているのかと周りに言われて……。

と思うでしょ? ところがね、戦争が後半に差し掛かった昭和18年11月、戦争が終わるまでにあと2年もないですね。あれは茨城県だったかな? 「決戦服を着用しましょう」という小学生、当時は国民学校の生徒たちが、体操服を着て鼓笛隊をやってた。街中でパレードをやっているのです。決戦服ってモンペなどのことですが、パレードでもやって宣伝しないと人々はモンペをはこうとしなかったのですよ。なぜかというと、当時の雑誌にはっきりと書いてあります。「あんな格好の悪いものは着られない」と。至極当たり前のことです。着られないですよね。
同時期の写真を見ると、例えば駅の改札を歩いている人たちは、みんな洋服を着るか、普通に着物を着ています。スカートですよ。なおかつ、男性が兵隊に行っているから、駅職員の補充で女性が入っています。そういう人たちは、昔は自動改札ではなくて改札口で切符を切っていたのですが、全員スカートの制服を着ているのです。これは何だろうと思いましたね。

(驚き)へえ~っ。

ところが、昭和18年の11月から寒くなり、食べ物が配給になってくる。暖房用の燃料も配給でした。それが供給に失敗して、全国的に滞ってしまったのです。暖房がないままスカートをはいたら寒かったので、モンペをはくようになったのです。本当にただそれだけの理由。それは戦後の資料ではなく、当時のものに書いてあります。それで、春になると暖かくなってきますね。昭和19年春の新聞のコラムに、「最近暖かくなってきて不衛生だからモンペを脱ぐ人が増えて遺憾」というような記述があります。“どうしたものかな”という政府の見解に近い目線で書いているのですが、一般の人たちは暖かくなってきたからもうモンペをはく必要がないじゃないかと言っているわけです。
昭和19年の夏はふつうに暑かったので、『この世界の片隅に』のすずさんたちも含めて、女性はみんな和服を改造したりして作った“アッパッパ”という簡易的なワンピース姿になります。涼しいから脚が出た服になるのですね。どこにも思想的におかしなところはない。むしろそこまで分かったら、「なんだろう、全然変わらないじゃないか」と思う。今の女性も寒かったら自宅でトレパンとかはきますよね。当時のモンペは、現代のトレパンをはいて外出するようなものです。もちろん、そのことに全然思想的な意味がないわけではありませんし、あるいは戦争遂行のためにというだけでもないのですが、それ以前は格好悪いという理由でみんなはかなかった。はかないでいたのです。でも寒いから、しょうがないからはくようになったのですよ。
翌年の昭和19年1月からは空襲が本格化します。いつ爆弾が落ちてくるか分からないから、常に逃げる用意をしなければならない。夜中でも飛び起きて逃げなければいけないから、靴を履いたまま布団に入ったりします。それから、鉄カブトというヘルメットを民間用も売っていたのですが、あれは内側にライナーが付いていて、実は頭の上にちょっと空間があり、鉄カブトをかぶったまま寝ると枕がいらないのですよ。頭はカブトの中でつられている状態だから。鉄カブトをかぶって靴を履いたまま、すぐに逃げられるような格好で布団に入って寝ていたのです。夜中でも空襲警報が鳴る。そうするともう、みんなすぐに逃げられる格好としてモンペをはくしかないですよね。
だから、昭和18年と19年で事情がまるで違ってくる。昭和6年から12年間もモンペをはかずに戦争をやってきてそこで、というふうに思うとね、最後の1年ちょっとでそうなってしまっただけで、全然僕たちと同じじゃないか。広島の中国新聞の当時の記者の日記には、「昭和20年1月1日 今年の神社への初詣ではいつもとちょっと違って、国民服とモンペ姿の人ばかりになった」とあります。ちょっと待てよ。昭和19年の正月はみんな紋付き袴だったのか? と気付くわけです。
あとは、昭和16年の12月から日本はアメリカと戦争を始めて、欧米的なものは避けるようになりますよね。英語も使うなと。あれは本当に誰が言い出したか分からないのですが。サンタクロースもクリスマスも駄目になるわけです。でもクリスマスは、それよりちょっと前まで海軍の士官が日比谷の帝国ホテルのパーティールームを借りて、クリスマスパーティーをやっていたのですよ。それが、その年ぐらいになるともうできないのですよね。昭和12年ぐらいからできないのかな? とにかく、アメリカと戦争が始まって、サンタクロースももう駄目になったということです。それで本に書いてあったのですが、ある家のお父さんが子どもたちに言ったのは、「子どもたちよ、残念だけれど、今年からうちにはサンタさんが来られなくなった。だけど、代わりに大黒様が大きな袋を背負って来るから安心しろよ」と(笑)。それ、普通にサンタクロースがいる生活をしていたのに、なにか社会的な約束事が変わったためにそれが駄目になっただけで、サンタさんに来てほしい子どもの気持ちも全然変わらない。そういう話をいっぱい集めてみると、何か装いが変わっただけなのだなというのが分かります。その間だけ、みんながみんな変にものすごい帝国主義の人たちになって、帝国主義を守るためにあんな服装をしていたのではなかった、というのが分かってくるのですね。
僕はそういうことを知って、それを代表する人としてすずさんみたいな人を描きました。あの人はぼうっとしているというけれども、本当にぼうっとしていたら、なんであれを着なきゃいけないのか分からないけど、みたいな感じでモンペをはいていたりするということなのです。そういうすずさんに対しては人ごとではなくなる。人ごとではなくなるのだけれど、違うのは、戦争は急にあなたの人生をゲームオーバーにしてしまいます。生きるの死ぬのっていうと分かりにくいけれど、いきなりゲームオーバーになって、リプレイできないのです。まだ3面までしかやってないのに自分の人生のゲームオーバーって、これ10面まであるのにここからもうできないの? という感じで自分の人生が終わらされてしまう。今まで普通に生きてきたのに。それより一世代前の人たちは普通にサラリーマンで仕事が終わったらビアガーデンに行って、ということをやっていたのに。だから戦争反対というよりもむしろ僕は、「なんなのだろうね」という疑問を自分の中に抱くようになったのだと思いますね。戦死するとか、特攻隊で死ぬとかいう理不尽さは。自分の人生の残りの可能性が突然全部なくなって、ゲームオーバーさせられてしまう。

映画に描かれなかったことに気付いてほしい

僕も林も、知っているつもりになっていたことが結構多いなと今すごく感じているところです。「こうだったはずだ」と決めつけると、それ以上自分の想像の世界を広げられない。だから自分ごとにならないのではないかと、今すごく思いました。

『この世界の片隅に』の映画をご覧になった方で、「戦争中のあのこともこのことも描いてないじゃないか」「片手落ちじゃないか」と言われる方もいらっしゃるのだけれども、そんなに世の中のことを全部描けないですよ、当然ね。例えば現代のことを描くときに、一つ前の首相が安倍首相だというところから映像を描く人はいないわけですよね。男女の恋愛を描くのに、今の首相は菅という人です、とそこから描く人はいないじゃないですか。それと同じなのですよ。明らかに語られないことのほうが多いわけです。でも、その語られないことがあるなと気付いたときに、そこにあるはずのものは何なのだろう、あったはずのものは何だったのだろうというところに皆さんの興味を持っていってもらいたくて。ひょっとしたら『この世界の片隅に』はわざと穴がいっぱい開いているのかもしれないですよね。

(納得)ああ……。

『この世界の片隅に』という題名からそれは推測できますよね。ある小さな一部分しか描いていませんよ、という意味の題名です。それ以外のことは、「あれ? じゃああれは何だったのだろう?」というヒントみたいなもの、穴ぼこの位置みたいなものは原作の漫画にも映画の中にもいくつも散りばめてあるつもりです。それで、観た人が「あれ?」と思ったときに、そういうことが気になるようになってくればいいのではないかなと思います。
例えば、『この世界の片隅に』の中では在日朝鮮人のことを語っていないと言われます。在日朝鮮人が日本に連れてこられて労働させられて殴られたりしていたことを描いていないとよく言われるのです。そのことを映画で描いていないじゃないかと。だけどその代わりに映画では、すずさんが終戦の日に「自分の体は海の向こうから持ってきたお米や大豆でできている」と言う。 “海の向こう”がどこの国のことを言っているのか分かったら、その答えが、あるいは別の答えが分かってくる。「自分が見聞きしていた『殴るの蹴るので働かせる』だけではなかったのだな」ということが分かり、食べ物も持ってきていたのだということが分かるはずなのですよ。そのことに関していうのなら、ちゃんと指摘したのは映画評論家の町山智浩さんで、町山さんは「昭和19年の秋は、朝鮮半島は水害などですごく米が不足だったはず。だけど、そこで採れたものをみんな日本に持ってきていたのだ。だとするならば……」という話をちゃんと解説してくださった。

自分たちは被害者だと思っていたけれども、自分たち自身も小さな戦いを、直接的ではないけれども間接的にしてきたということの気付きですね。

それは原作の流れでは「暴力」という言葉で書いてあったのですが、じゃああのすずさんが人を殴ったり蹴ったりしていたか。これはないですよ。しかし、そんなことをしない人でも「間接的な暴力」を振るえるだけ振るっていたのです。それは、食べ物を簒奪するということだったのです。映画ではその後に終戦になってお米がないのだけれど、今日はこの白いお米を炊こうと言って、お母さんがお米を出す。あの中の何%が朝鮮米で何%が台湾米かと想像してみればいいのです。すずさんはそれを食べなければ8月15日を乗り切れないし、翌日からもそれを食べていく。でも、そうしたことに気が付かない人は一生気が付かない。今まで自分が知ってるつもりだった範疇の中だけに閉じこもると、気づくことが出来ない。でも気が付いてほしいなという、その辺の穴ぼこをいっぱい掘ってあるのですね。ということです。

ありがとうございます。人によって不謹慎と言う人もいるかもしれないのですが、僕は今、片渕監督の話を聞いていて、すごくワクワクしました。もっともっと知らない世界があるし、知らない人がいるし、知らないことがあるし、ということに気付いて、僕自身は本当にそのことを知りたいなと思いました。

いいですね。それで今、NHKで毎年『あちこちのすずさん』という番組をやっているのですが、本当はそういうみんなが「知りたいな」と思うことを知らせてほしいというところから始まっているのですね。だから、そういう内容で補足されつつあるので、たくさんのことを気が付いてほしい。「学ぶ」というよりむしろ「びっくりした」でいいと思うのですけれどもね。「え、そんなことがあったの?」みたいなことを。

NHKに特設サイトがあるじゃないですか。あれを拝見して、トマトをお腹に抱えていたのが、爆弾でトマトが裂けてお腹の中で割れちゃった話とか、玉音放送中におならをしちゃってみんなで笑った話とか、ああいう話を見ていると本当に今の僕たちと何も変わらないのではないか、戦争という状況下ではあるけれども、そこでの暮らしは今の人と何ら変わりがない。同じ人がそこに生きて、同じような語らいが同じようにあって、ということに気付くことができて、そこがなにか、自分ごとというよりは親近感というか、現代の僕たちと一緒だったのだな、ということに気付く足掛かりになっていくのだと、改めて思いました。

今年もやりますよ(笑)。