片渕 須直 監督インタビューこの映画の「片隅」に込めた思い~描かれなかったいくつものこと~

夢や熱中できることは規制されない

工夫を凝らして豊かに生きる

すずさんが絵を最初は自由に描けていたのですが、物語が序盤から中盤に進むにあたって、憲兵に見つかってどんどん絵も描けなくなって、いずれは右手も失ってしまう。それを見ると、今コロナ禍で学生や若い人もそういう状況に近づいてしまっているのかと感じます。片渕監督から、今の学生が好きなことを継続できるようなアドバイスをいただけると嬉しいです。

やってはいけないのは、「大勢集まって近くに寄ったり、マスクなしで大きな声で話して唾を飛ばしたりすること」、そういうことしか言われていないはずですよ。ですよね? だって、家にいる限り、パソコンで何を見たってOKですし、LINEで友達とずっと話していたって怒られないわけですからね。右手も奪われない、絵も描ける。何が制限されているのですかね? あるいは、何が自由で残されているのか?
うちの映画学科では実習で映画を撮る人もいますが、大人数でロケができないとか、スタジオで大人数でできないとかというので学生は困っています。例えば一つの部屋の中に3人登場人物がいる、という映画を撮るときに、3人をいっぺんにカメラの前に出すと“密”になるので、できるだけ1人ずつ撮って、でも3人が同じ部屋の中にいるように画面を作る。できますよね? 1人ずつ別々に写していって、2人写っている画面を作って、2人ずつ描いていく。撮影は同時ではなくて違うタイミングでやって、2人しかスタジオに入っていないのに、あるいは1人しかスタジオにいないのに、映像の編集次第で3人が同じ空間、同じ映画の中で同じ部屋の中に同居しているみたいな映画を作れてしまうわけなのです。「何ができない」のではなくて、「やったらできる」と思おう、と。
そう、あと、何ができないですかね? 具体的に。「みんなで飲み会やろうぜ」って言っても確かにできないですよね。だけど、それこそzoomを使ったら? マスクを外して自分の家で飲んでいる人たちがzoomで集まれば、それで新歓コンパもできてしまうわけだから。それじゃ寂しいよって言われたら寂しいです。だけど、「これだったらできるんじゃない?」と言い始めたら、結構楽しめるのではないかな? そこが戦争と違うのです。戦争は「死ね」といきなり言われるでしょ? だって、今はそうやっている限り感染しないから、逆に死なないのですし。
だから工夫して生き延びろということではなくて、本当に今のこういう状態って、戦争は別として過去にありました? 昔、スペイン風邪が流行したことがあったけれど、そのときも世界中でこうやって家に閉じこもってLINEやっていたわけじゃないじゃないですか。むしろ世界の歴史でもかつてなかったタイミングを我々は今体験しているのかも。世界初めてのことをやっているのかもしれないよ、と思ったら、ちょっと違う気持ちになれないかな。実際、このコロナ禍という時期をどうやって乗り越えるのかというのは、本当に歴史的な挑戦のはずです。そういう意味でいうのならば、これをどうやったらいいのかなと工夫を楽しんじゃうみたいなことでいいのではないかなという気がするのですよね。
難しいですよ。本当だったらできるのにできないことがいっぱいあるというのはストレスではあるけれども、と同時に普通だったらできない経験をしているのだと思って頑張るのもいいのではないかと思うのですよね。どうせ乗り切らなくてはいけないのだったら、ちょっとポジティブに気楽に挑戦的に乗り切ろうと思ったほうがいいのではないかな。何ができないのか。じゃあ、その代わりに何ができるのか。僕に言えるのはそれしかないですよね。

興味の対象は制限されていないから

これまでのお話をお伺いして、ピンチをチャンスにというような発想を求められるかなと感じました。学生なりに一歩を踏み出すときに、今の監督の言葉が励みになります。大学生も、夢やもっと熱中できることがあったら一歩を踏み出す勇気を持てるかと思います。監督は夢や熱中することとして、映像を作ったり歴史を勉強したりすることを学生時代に見つけられたかと思うのですが、コロナ禍の今、学生がそういうものを見つけるためには、どうすればいいのでしょうか。

インターネットで検索しまくれば、一つや二つは引っかかるでしょう? 僕らのときはそれがなかったから。

ああ、なるほど。

だから、それを本当に足元に転がっている、と思わないと。びっくりするくらいいろいろな知識がインターネット上に転がっています。そういう意味でいうと、僕は今家にいても全然退屈しないですよ。たまたま僕が退屈しない分野のものだけがインターネット上に転がっているだけなのじゃなくて、世の中にいる人の興味の分だけ、いろいろなことがそこにあると思います。あれは、昔は本当になかったのですよ。
今の学生さん、可哀そうだな、と本当に思ってしまうときがあります。だって、人と会えないから。本当に残念です。だけど知識とか、やりたいことに対して……、例えば野球やりたいとか、野球の試合をやりたいけどできないということがあるにしても、例えば、こういうケースのときにこうやって、バッターが振り逃げしたらランナーはこう走って、というシミュレーションみたいなことは頭の中でたくさんできるじゃないですか。そういうふうに、「いやできるんだ」と思って、自分の興味に合うものをどんどん見つけていけばいいのではないかな。
アニメーションでいうならね、僕らの学生の頃に作ったアニメーションは、元々根を詰めて、家で一生懸命やらないとできないものだったのですよ。だったらうちのアニメーション専攻の学生も、もっとすごい大作ができるのに(笑)。これ、チャンスだと思えばいいのに、と僕は思うのですがね。

今監督がおっしゃったように、そういうことができるということに気付けるかどうかが最初のステップだと思います。

今、漫画だって配信で読めるのですよ。本だって読めますよね。本当に自分の体を動かすというフィジカルなものは不足するにしても、興味や知識の部分でいうのなら、かなりの恩恵は受けられるのではないですかね。

そうですね、フィジカルディスタンスは必要ですけれども、それ以外のものはどれだけ密にやっても怒られない。

そこですよ。しかも、そこのところは「一つも制限されていなかった」ということに気が付けばいいんじゃないかな。人それぞれ、いろいろな興味の描き方ってありますからね。あらゆる興味の対象が、インターネットをちゃんと利用できたら転がっているかもしれませんよ。ネットで読み放題な漫画だって、今の漫画は昔でいうならば中間小説や文学に近いような内容を持っているものまで幅広くたくさんある。「人生って」と考えるものもあるわけです、あるいは単純に暇つぶしというだけでもいいですしね。
大丈夫ですよ。駄目なのは、みんなで飲み会やることだけだから。そこを我慢するだけなの。

学生だけではないと思いますが、僕自身も駄目だと言われているように感じている部分が結構あるように思います。

戦争中にあれやっちゃ駄目、これやっちゃ駄目と言われていたのと全然性格が違うと思いますよ。「英語は使っちゃ駄目」って、今誰も言ってないですから。

三密の飲み会くらいですものね(笑)。

映画の中に、すずさんがいろいろな人から話を聞いてご飯を作るところがありました。楽しんでいたかどうかは別として、制限がある中でもこうやってみたらいいのではないかとか、こうしたら誰かを喜ばせられるではないかとか、生きることに繋がるのではないかという、工夫や知恵が結構見られたなあと思いました。片渕監督がおっしゃった、今の暮らしでも三密やフィジカルディスタンスさえ避ければ、どうやったら面白くできるか、やってみられるかという、可能性のほうが結構大きいなというふうに、お話を聞いて改めて感じました。

いや、すずさんの場合はね、例えば楠公飯(なんこうめし)というご飯の炊き方を勉強してきて一生懸命作ったりしているけれど、じゃあ楠公飯をなんで作らなければならかったのか。当時日本でとれたお米のかなりの量を、中国で戦争している日本の軍隊に送っていたわけですよ。だから、「国民には一人頭毎日これくらいの分を配給します」と言っておきながら、国民に食べさせる量を減らしたかったのですね。で、重量は変わらないのだけれど、白米から玄米に近い、精白が終わっていなくて糠が付いたお米に切り替えてしまった。糠の分だけお米が重いのですよ。同じ重量だと思っても、実は糠がいっぱいついているだけ。で、糠が付いているままでないと、楠公飯は作れないのです。つまり、糠が付いていても大丈夫、食べられるのだというプロパガンダに、すずさんはまんまと乗せられていたのです。すずさんの家のお母さんは、一生懸命棒でついて糠を落としているのですが、糠を落とすとお米が減ってしまうのです。すずさんはあれが付いたまま楠公飯を作りました。糠が表面を覆って殻になっていると、加熱したときにポップコーンみたいにはぜるのです。で、はぜてふわっとなったところに水を吸わせて楠公飯にするので、糠が付いた米でも精白が終わっていない米でもこうやったら食べられるという政府の宣伝にうまく乗せられたのです(笑)。

ああ、あれはそういう意味があったのですね。

でも、現在「これをやっちゃいけませんよ」と言われるのは疫学的な理由からで、本来はその多くのものにはそんなに誰かのよこしまな意図は入っていないはずと思うのですね。だからこそ営業中止や自粛を要請されるお店に、政府はもっとちゃんと補助金を出すべきだと思うのですが、そういうことと戦争中のあれこれとは理由的に関係がないですよね。本当に今やらなければいけないのは、こうしたら自分は病気にかからない、人に病気をうつさないということの工夫だけなのではないかな、と思うのです。
それはすずさんが、実はやらされていた工夫などよりも、もっと気楽でまともなはずなのですよ、本来必要とされているのは。自分と他人の病気を防ぐというだけなので。本質的な理由もわからいまま政府の言うとおりに楽しくやっていたすずさんは、結局は姪を失い、自分の右手も失い、リンさんも失って、たくさんのものを失ってしまうわけです。でも、僕らは、失職とか減給とかいうのはまたちょっと別の次元として、すずさんなんかよりよっぽど意味のある乗り切り方、工夫ができるはずですよね、多分。ま、偉そうに言っていますけれどね。